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ユーザーインで行こう。

京都醸造、缶ビールも出してたのですね。うますぎ。 さて。「ユーザーイン」という言葉を学びました。アイリスオーヤマさんが提唱しているそうで、一般的にはカスタマーインなどとも呼称されるようです。 プロダクトアウトに対するマーケットインという言葉がありますが、これのさらに踏み込んでのがユーザーイン。顧客視点をとことん追求するという意味でユーザーに成り切る、というニュアンス。つまり、ビールを作るならありとあらゆるビールを、お客さんとして飲みまくって感じた気持ちを商品なりサービスなりに落とし込むべしと(適当な例なので、写真とは関係ありません)。 ユーザー目線みたいな姿勢はともすると雰囲気だけのフワッとしたものにもなりがちで有名無実化しやすかったり都合のいい仮説にもなっちゃったりするけど、ユーザーインまでいくとリアルになりそうですよね。 自分の行動哲学も、現場主義というか、足で稼ぐというか、フィールドワークやエスノグラフィがモットーなのでとてま腑に落ちるのでした。という目線で見たらアイリスオーヤマさんのシェフドラムって商品が欲しくなったぞ。 今年はユーザーインをキーワードに頑張ってみようと思うのでした。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

ミュージアムはサードプレイスだ。

日経新聞の「再生ミュージアム」という建築家の青木淳さんの連載が楽しかったです。デンマークの「ルイジアナ美術館」と「弘前れんが倉庫美術館」にとても行きたい。 さて。同じく日経の寄稿で「美術館は情操を育む第3の場だ」という記事がありました。自宅と職場に次ぐ第3の場=サードプレイスはカフェなどがよく挙げられますが、確かに美術館もサードプレイスたりうるなと目からウロコです。まあ、一部の超人気展覧会(コロナ以降は入場制限でそういうのなくなったのかな?)だと落ち着かないけど、それはそれとして。 ポイントは「情操」で、情操教育などの言葉がありますが、今ネットで辞書引くとこう書かれていました。 「道徳、宗教、芸術、学問など社会的価値をもった感情の複合という意味でとらえられる場合。絵画や音楽を鑑賞するとき、情動のようなはっきりしたものではなく、なんとなく心が洗われるとか、身が引き締まるとかいう感じになることがある。このような漠然とした、いくつかの感情が複合したような状態をいう。この情操を身に備えた人間は、社会的価値のうえで高く評価される。一般にいわれている情操教育の情操というのは、この意味で用いられていることが多い。」 難しいなヲイ! でも、「漠然とした、幾つかの感情が複合したような状態」というのはいいですね。つまり簡単には言葉にできないということです。本人もこれがなんだかわからないやつ。合理性とは対極にありそうなこういう情操と向き合うことが、私たちには必要なんだと思います。そしてそれは答えのない問いを手に入れようとする姿勢であり、昨今盛んに求められているやつであり、それと出会いやすいのが美術館という場所、特に現代美術かもしれません。 自分が美術館に行くのが好きな理由を言い当ててくれているような、個人的には刺さる良記事なのでした。リンクはこちらです。 美術館、情操育む「第3の場」 そういえばここのとこ美術館に行けてなくてイケてないぜ。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

影の仕事の報酬は誰が支払う?

人間ドックの結果が返ってきて、軽度の異常はあるものの概ね問題なしってことでした。軽度の異常、気になるな。。 さて。新聞で「シャドーワーク」なる言葉を知りました。1981年に哲学者のイバン・イリイチさんが提唱したそうで、子育てや家事などの報酬をともなわない仕事全てのことを言うそうです。で、最近はむしろ、現在のデジタル社会の中で気付けば消費者が負担している労働にフォーカスが当たっているそう。 すなわち、アプリやらウェブサイトでの会員登録だったり、オンラインショッピングでの購入手続きだったり、そういう何やかや。何かに興味を持ってクリックしたものの、ID登録で嫌になった人、多いんじゃないですかね。僕はもちろん何度もあるわけですが、この煩わしさこそがシャドーワークということ。思い当たることがありすぎるぞ! デジタル社会の前であれば、窓口に行って、企業側がやってくれていたかもしれない作業がいつの間にかこちら側にきていたという話で、もちろんそのおかげでコストが下がったり無料でサービスを享受できたりしているから、一概に良い悪いは言えないのですが、費用は減っても自分の時間や労力を差し出しているとしたら、果たしてそれは便利と言えるのか。一度立ち止まって見た方が良いことかもしれません。 最近のウェブサイトは問い合わせ電話番号が載ってないことも多くて、メールなりチャットなりでの相談がスタンダードですよね。それで解決すれば良いのですが、なかなか知りたいことにたどり着けなかったり、すぐには希望がかなえられなかったりして悶々とすることもよくある話。ちょうど今、旅行予約でもやもやしてるんだよな。 テクノロジーによってずいぶんと利便性や効率性などたくさんの恩恵を受けたように思いますが、事実として恩恵を受けている実感もありますが、決してそれは無償ではないということ、個人情報などのデータに限らず、場合によっては恩恵以上のコストを支払っていることもあり得るということを今一度考えたほうがいいよなーと思うのでした。ただより高いものはないってか。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

自分の芯と向き合ってみた。

京急主催のスタンプラリーに参加したいのですがなかなか時間がありません。ぬー。 「自分の芯を考えよう」という新聞記事がありました。それはベンチャー企業の経営者の方の言葉で、自身の起業時に漠然と「Appleのようなモノづくりがしたい」と言ったところ「ありきたりだ。自分の芯はないのか」と突き返されたことで、自分の芯と向き合い今のビジネスを起こすに至ったというエピソード。 自分の芯と繋がっていないと仕事に完璧にコミットしてやり遂げられないというのはきっとあるでしょうね。それを望むかどうかは人それぞれでしょうが、合致しているほうがベターなことが多そうではあります。 ということで自分の芯は何なのかという問いにつながるのですが、最近思うのは自分には編集者の血が流れているなということ。「物事をどうやってより光らせるか」と「それをどうわかりやすく届けるか」を、結局ずっとやっている気がします。どんな役割にあっても。それは芯とは少し違うのかもしれないけど20年やって身についた職能であることは確かだ。 そしてより芯に近いところにありそうなのが「書くこと」で、こっちはアイデンティティといって良さそうな気がしている。特別な才能を持ち合わせているわけではないけど、曲がりなりにも書き続けてはきたし、向き合ってはきたので。そして、少なくとも書くことが好きだとは断言できる。書くことで何らかの役に立ちたいとも思える。 あともう一つは、運動。とにもかくにも体を動かすことが好きだ。でもこっちは趣味の領域なのかな。これで誰かをどうこうしたいというよりは、あくまで自分の楽しみとしてあるような気はする。でも、運動が心身によいことは確かだから、多くの人にその魅力が広まったら素敵だとは思う。子供を持ってからは教えることにも興味が向いている。 結局のところ、20年前から自分の芯はあんまり変わっていないのかもしれないなと思うのでした。以前よりは、確信に近くそう思えているというだけで、深く考えたわけではないけど芯と近いところにいられる自分は幸運だったということでしょう。 あとは、これを今後どう活かしていけるかという大きな問いが残っている訳ですが。なんとなく興味があるのは、ラグビーのリーグワンの広報とかの仕事ないかなってことと、部活民営化が取り沙汰されてますがそういうスポーツ教える系でなんかないかなと。 完全な自分語りになっ

負けられるリーダーでありたい。

「手帳類図書室」という施設に行ってみたいんですよね。その名の通り、ありとあらゆる手帳の類が収集・展示されているそうです。小川洋子的響きに惹かれる。 さて。日経新聞で建築家の隈研吾さんのインタビューが載っていました。主に、組織のあり方や、リーダーシップについて。多様性を重んじること、判断を速くすること、そして採算性だけで仕事をしないこと。 特に最後の採算性だけで仕事をしないというところに興味を持ちました。大きな事務所はどんどん大きな効率よく儲かる仕事だけを受けるようになる。それは採算性からみればしごく当然だけど、そういうことばかりが得意な人が集まり、結果イヤ〜な空気になると。 日本中、あっちこっちに隈さんの建築があるよな〜と思っていましたが、その根底にはこういう思想があったからなんですね。「赤字でも面白い建築はみんなの自慢になりそれが会社のヒストリーになる」だそうです。そして、「大きな仕事の次は小さな仕事がやりたくなる」そうで、そのあたりのバランスが結果的に事務所を大きくし、そして仕事が仕事を呼んでいるんだなと納得しました。 採算性を度外視してたら早晩組織は倒れちゃいますが、損して得取れじゃないですが、短期的な採算性だけでは測れないものも間違いなくあるってことですよね。こういう感覚は甘えや言い訳にもなりそうですが、これだけの成果を上げ続けながらこう言えるのは実にカッコイイですね。 僕もこんなふうにあれるように、硬直化せず新しいものを取り入れ、有機的に変化していかないとなと思わされるのでした。「負ける建築」とは言い得て妙です。そして、「負けるリーダー」も。鋼のような強さだけではなく、木材のようなしなやかさを持ち合わせて。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

幸せのために生きるのではなく、生きてることが幸せだ。

最強寒波ってパワーワードですよね。とにかく大きな被害が出ませんように。 さて。ちょっと前まで日経新聞で「幸福感」にまつわる連載コラムがありました。幸福感が高いと収入も寿命も増えていろいろメリットありまくるというのが実証されていて、じゃあどうやって幸福感高めるねん、というお話です。 誰でも実践できそうな3つの方法が紹介されていて、それは「味わって食べる」「経験を楽しむ」「自然と触れ合う」だそう。自然と触れ合うは素直に共感できますかね。経験を楽しむは、ネガティブなものも含めて楽しめるかどうかが大事だそう。味わって食べるは盲点というか、でも、言われてみれば大事なことのような気もします。食事もそうですし、それ以外もよく味わうこと。 でも、この方法には落とし穴があって、「幸せになろう」と思ってやると、ストレスがかかってしまって逆効果なのだとか。これもそう言われるとそんな気がしますね。幸せになるぞー!と力んで自然に触れてたら、なんだか興醒めですもんね。そうじゃないだろ、と。 これを回避するには中長期的な視野に立つこと、自分のためよりも利他的に取り組むことが重要だそうですよ。単純だけど奥深くて、当たり前のようでいて禅問答的な、きわめて、よりみちの倫理学っぽいテーマだなって思いました。幸せになりたいけど、幸せになろうとすると逃げていく。 そのものを急いで手に入れようとするのではなく、大らかに健やかに朗らかにいた結果、望んでいたものが意外と近くにあったというのが理想的ですかね。これも、頭で考えすぎるとよくないですね。幸せのために味わうのではなく、作ってくれた人のために、一緒に食べる誰かのために味わおう。そういうことなのかもしれません。 これを読んで、今年の抱負は「利他」にしようと思いました。リターンは求めませんよ(おわかりかと思いますが、駄洒落です)。 綺麗な景色を見るのも、幸福感高まりますよね。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

レトロとピアノ憂鬱

7月末からともに暮らしたクワガタ♂が逝きました。長生きしてくれたよね、ありがとう。 さて。日経新聞のコラムで「レトロトピア」という言葉を見ました。見ての通りですが「レトロ(懐古主義)」と「ユートピア(理想郷)」を合わせた言葉で、つまるところ「昔は良かったよね」です。これが今、世の中を少しずつ覆い始めていると。元記事↓(有料会員限定記事です) ノスタルジアが呼ぶ幽霊:日本経済新聞 今が不安だったり、未来に希望が持てなかったりすることで、過去を美化しそれにとらわれるというのは、感覚的にもよく分かる気がします。過去はもう変わることはないのに対して、未来はどうなるかわかりませんからね。過去のほうが話はしやすいさ。 大国への野望を隠さない中国にロシアもそうですし、トランプ元大統領、その他にも世界中で勢力を伸ばしている極右やポピュリズムも、このきらいがあると。「あの頃の輝いていた自分たちを取り戻そうぜ」と言われたら、とりあえず「おー!」とは言ってしまいそうです。問題はどうやって取り戻すんだって話ですが。 不満をあげたらきりがないですが、今が以前より良くなっていると信じられないのは苦しいことです。『ファクトフルネス』にも書かれてましたが世の中全体で見るとかなりの部分ではいい方に向かっているはずなのに。 そして僕は自戒も込めて以前よりもワガママで独善的になっていないだろうかと問いたいと思います。いろんな便利を手にしたことでもっとこれが欲しい、あれもそれもどうにかして手に入れたい。それに見合うだけのことを自分がしてればいいのかもしれませんが。謙虚であることや、今の幸運を当たり前に思わないことも忘れずに。 最後に同記事の引用をさせていただきます。 「過ぎ去った時代の回帰を渇望しても、歴史の時計は巻き戻せない。グローバル化やデジタル化の流れを遮断し、人種やジェンダーの平等にあらがうのは難しい」 レトロに罪はないけれどそこに囚われることのないように。タイトルは変換ミスですがいいかなと。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

自分を磨き続けること

CASIOとDAISOを空目した僕です。あるある〜(あるか?) さて。スピードスケートの小平奈緒さんが先日現役引退されました。と言っても僕は彼女のことほとんど知らないのですが、今日の日経新聞に引退に寄せて小さな記事が載っていました。冒頭を引用すると +++ スピードスケートの小平奈緒選手(36、相沢病院)が現役を引退した。ラストレースから5日後の10月27日の会見。「目標に順位や記録はあったが、それは手段。目的には必ず、唯一無二の自己表現があった」。自身の競技人生をふりかえる言葉を聞き、あらためてアスリートとしての意識の高さに感服した。 +++ とありました。最後のレースは、前年の自身の記録を上回っての優勝だったそうで、地元長野のエムウェーブは長野五輪以来の満員だったそう。全然知りませんでしたが、現役前半はなかなか勝てない時期もありながら、後半はとても強かったのだとか。 アスリートの中でもレジェンドと呼ばれるような人たちは得てしてこう言う思考をしているような気がします。自己表現という言葉を用いずとも、大谷翔平も、キングカズも、記録のために戦っているようには見えませんね。競技を愛し、その中で高みを目指すこと。その先に何があるのか知りたいから。それがすべてのようにも感じます。結果として成績が付いてくるような。 こういうのってアスリートに限らない話かもしれませんね。僕たちはいい点数を取るためや、いい記録を残すために生きているわけじゃないし、それは一つの目安になるけれどゴールではないんだよな。生きる意味を求めることさえも、誤解を恐れずに言えばもしかしたら余計なものなのかもしれません。ただ、自分に忠実に、他人をリスペクトして、日々前に進む。それを自然体でできたら強いだろうな。 もうちょっとだけ引用させてください。 +++ 母校の信州大学の特任教授に就任。イベントや講演などの依頼も目白押しという。学生や子どもたちに伝えたいことを問われると、「競い合う仲間をリスペクトすること。違う文化や考え方を分かろうとすること。数字や順位だけで自分や人の価値を決めつけないでほしい」。 +++ 俄然興味が湧いてきました。講演などを聞くチャンスがあれば是非行ってみたいと思います。きっと、競技人生以外のフィールドでも僕たちを魅了してくれて、その生き方はアスリートだけのものじゃないと証明してくれるよう

BeRealというアプリが注目らしい

「zenly」というアプリを使ってみようとしたけど放置しています。 さて。「BeReal」ってアプリご存知でしょうか(ビリールと読むそうですが、みんななんて読んでいるんだろう)。近頃注目度急上昇中のSNSだそうで、僕は新聞だったかのメディアで目にしました。 特徴は、通知が来たら2分以内に写真を撮影して投稿するというルールで、この制約によって「映え」や「盛る」ことが事実上不可能で、リアルな日常が共有されるのだそう。さらに前面と背面の両方のカメラが起動するらしいので、寝癖の自分&散らかったままの部屋、みたいなことにもなりかねないのだとか。もちろん投稿したくなければスルーするだけ(スルーすると友達の投稿が見られないそう)。そして投稿は1日だかで消えるんだって。 あくまで親しい間柄で使われているそうですが、これがZ世代にウケているとかなんとか(本当にウケているのかは知りません。今度会社のZ世代に聞いてみよう。誰だっけ、Z世代? 記号的に使ってるわりに、実像と結びつかないあるある)。でもこの、SNS疲れを逆手に取る発想は、割と共感できます。 気づけば僕はSNSをあまり触らなくなっていて、FBを時々覗いてたま〜に投稿して、インスタはもっとたま〜に投稿するけど誰のこともフォローしてないのでタイムラインは全然見ていません。クラブハウスは……あんなに招待してくれ〜!ってわめいたのに一度も使いませんでしたごめんなさい。 投稿するときはやっぱりそれなりに見栄えのするものを選んでしまっている自分なので、いやらしいな〜と自分でも思うのですが、地味な投稿は案の定いいねがつかないので、それはそれでちぇって気持ちにもなるし、「地味な投稿をあえてスカしておりまぜているオレってやっぱ意識高いじゃん」てことを見透かされていたのかもしれません。いや、ただセンスがないだけか。 そういう無駄な自意識を削ぎ落としてくれるこのアプリのあり方ってのは確かにいいですね。つながるという目的に関してはとても自然に果たしてくれそうな気がします。どこまで日常を晒すのかってのはありますが、普通の毎日を普通に共有できる関係ってとても健全。学生時代の、約束しなくても毎日学校で会えるあの感じなのかな〜。 自分がこのアプリを入れる予定は今の所ないですが、とても興味深いと思うのでした。欲しいのはつながりというより、信頼関係なのかもしれま

フューチャー・デザイン思考

次男の拾ったどんぐりで公園に矢印を仕掛けておきました。 さて。新聞で「フューチャーデザイン」という言葉を知りました。アメリカの先住民族は物事を決めるときに7世代先の子孫の利益になるかどうかを判断基準にしていたとか(200年くらい?)。そこから、中長期の目線で物事を考えることを「フューチャーデザイン」というそう。 たとえば、50年後の視点で見ると「空飛ぶクルマ」が走り「ロボットが当たり前」になるという具合で、そんな未来に必要なもの、あるべきものはなんだろう?と発想すると、現在を起点にしたものとはずいぶん違った議論ができるそうです。 確かに自分の仕事で想像しても、どうしても目の前のハードルを越える方法が思いつかずに立ち止まってしまうことは多い。けど、10年20年後にはこうなっているだろうや、こうあるべきだから今変えなくては!という思考回路で見てみると、今やるべきことが確実に変わって驚きました。 つまり、僕らはいつだって近視眼的であるということでしょうね。それはもちろん当たり前というか仕方のないことなのでしょうが、自覚的であればうまく回避できそうな気もします。やるべき理由よりもできない理由を並べてしまわないように、フューチャーデザイン思考でいこうと思うのでした。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

コミュ不全の僕たちが抱え始めた小さな闇のこと

マジで日傘検討するレベルの暑さですね。。 さて。 昨日綿矢りささんの新刊『嫌いなら呼ぶなよ』の感想書きました が、コミュニケーション不全はひとつのテーマだったように感じます。ちょうど 似たようなテーマのコラムを日経で読んだ ので、思うところなどを書いてみます。 前提として、現代は「シンギュラリティー(個別性の意。AIがヒトを越えるあれとは違うのか?)」の時代だそう。多彩な情報と多様な価値観が広まり、一律的で固定的な考えの押しつけを嫌う(男はかくあるべし、的な)。昨今言われる多様性のことと思っていいでしょう。どんな個性も否定されるべきではないし、受け入れられるべきである。まっこと、その通りだと思います。 でも、それゆえに、共通性を維持することがとても難しいとも感じる。すべての価値観が一致する人なんていないわけで、その差異をどこまで許容できるかも、人によってずいぶん違ってくるだろう。5割一致すれば多いほうとみなすのか、8割一致でもまだ足りないと思うのか。大筋は一緒だけどディテールが違うとき、それでも一緒に歩みを進められるのか。それもまたシチュエーションによって変わるでしょう。無数の変数の中で、他者との関係をどう切り結んでいくのか。いちいち全部考えていくのもめんどいしね! 摩擦や衝突はできれば避けて通りたい。炎上なんてもってのほかだ。そうするとどうなるかといえば、リスクヘッジを最優先して、当たり障りのないことだけを言い、周囲の顔色を窺いながら、やがて心地いい内輪の世界に閉じこもることになるはず。確かに自分でも、余計なことは言わないでおこう的マインドは、昔よりも強くなっているので(年を取って丸くなった以上に)、これは決して大げさではないように思う。何より、どんな意見にもそれなりの理屈はある以上、それはもうそれぞれの個性であり好き好きだとすると、口をはさむ余地なんてなくなっちゃいますよね。個人の自由さ。 コラムでは、その先に起こることにも触れているので、引用します。 「お互い踏み込んだり、踏み込まれたりしない、ゆるやかな多様性の世界は、実は自分の身の回りに異物が入ってくることを正義の押し付けとして排除する、専制の空間ではないか。自分は寛大だという人の多様性は、実はかなり狭いのではないか。「よく考えたけど決められない」という一見誠実にみえる態度は、一部の信念ある(カルト的なもの

道具に宿る思想をたどる良特集です。

メルカリに出品して早く売れると値付けを間違えた気がしてしまう貧乏性な僕です。 さて。WIREDの最新号「AS A TOOL 気候危機を生き抜くツールカタログ」を読みました。これがなかなか示唆に富んでいて面白かったです。 内容をかいつまむと、テクノロジーの進展と、様々な機器が目の前に迫る空前の時代において、真に役に立つ道具とは何かを考える特集です。道具とは、モノそのものだけでなく、文化や思想、ライフスタイルまでも含んでいて、そういうスタンスは伝説の雑誌「WHOLE EARTH CATALOG」の精神を受け継いでいるとか(読んだことなし)。 実際に多種多様なツール(広義の)が紹介されていて、例えばより長く歩くためのアウトドアグッズに始まり、土を耕し大地を開くための穀物の種もあればウェアや足袋もあれば"不耕起栽培"という農法の紹介も。はたまた音楽のカテゴリでは、音楽レーベルの「DUST TO DIGITAL」や、最近静かなカウンターブームらしい有線イヤフォンとかも(嘘だろ?リバイバル早すぎるだろ、まだAirPods使ったことないってば!) あまりに幅広すぎて、実用的ではないと思いますが、たくさんある中で、なんだこれ?って気になるものの一つや二つは必ずある気がします。少なくとも、「こんなのあるんだ?全然知らなかったわ」というのは間違い無くあると思います(有線イヤフォンとかね。嘘だろ!(しつこく))。 でも、この特集で価値があると思ったのは、ツールカタログの合間にたくさん挟まれるコラムの方でした。例えば、ガレージブランド「山と道」の夏目さんによる「ウルトラライト」の考え方は、荷物の重さ=価値を知ることを説きます。ものにあふれる今、と同時に断捨離もメルカリも浸透した今、自分にとって価値のあるものは何か。所有する、持ち歩くに値するものは何かを問いかけてくれます。それは、山の中での必要最低限を起点としながらも、それぞれの生活全般に関わるもので、果たしてオレたちは、この人生を何とともに送るべきなんだっけ?という再考を促してくれるのです。最高でしょ? あるいは、山梨のレストラン「DILL eat,life.」(名店。自分は行ったことないけど、オズマガジンで取材させていただきました)のオーナーシェフ山戸ユカさんが、「料理と食事をめぐる循環について」語ります。身土不二を

抽象化することが大事ということ。

NBAはドラフトが終了して、来年はどんなシーズンになるのか今から楽しみです。 さて。「抽象化することが大事」という趣旨の記事を読みまして、なるほどな〜と思いました。曰く、抽象=曖昧としたものでよくない、というイメージがあるが、本来の抽象化は全体像をつかむことを意味するそう。なるほど、それは大事なことだ。 抽象というとつい、「ふわっと」や「ざっくり」方面にとらえがちですが、そうではなく、より本質的な核心だけを抜き出すのが本来の抽象化ということか。うまくできればその抽象には汎用性がもたらされ、汎用性があれば様々な事象にも応用が効いてくる。だから抽象化ができれば、そこを起点に物事のコンセプトを立てることにもつながっていくと。 個別具体的な各論にとらわれて、マクロに全体をデザインする視点て、抜けてしまうことも多いかもしれないな。ある意味、可視化されている各論を語るのは容易くて、そうではないメタな目線を持てるかは、なかなかセンスや訓練のいることなんでしょう。 あるいは逆に、抽象的なものから具体的なイメージを膨らませることも、僕たちは苦手としているかもしれません。すぐに答え=正解を欲しがったり、他人の目を気にするがゆえに、抽象的なものを難解として遠ざけてしまう部分があるような気がします。不正解でも、自分なりの見解を持って当たれば、それはどこかで大事な意味を持つこともあるはず。 目先の利益や、わかりやすい現象だけではなく、大きな目線と心踊るロマンが必要ってことですかね。などと思ったのでした。おしまい。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

失敗を成功の基にできるように。

美術館に行きたいのですがなかなか時間が取れません。 Chim↑Pom見に行かなくては! さて。日経新聞の「こころの健康学」という連載が好きなのですが、そこで「失敗は失敗で終わらない」という記事がありました。若い頃は特に、若くなくてもですが、人はいろんな失敗をしてそこから学ぶという趣旨なのですが、とても共感できる内容でした。 ざっくり言うと、失敗した後が大事という話です。失敗は悔しいし、恥ずかしいし、できれば避けて通りたいものです。でも、失敗したことのない人なんて恐らくいないし、そもそも何が失敗なのかは実は人によって定義も分かれるところだと思います。仮に今失敗してでもそのおかげでのちの成功が生まれるんだとしたら、それって失敗だったのか?って感じですし(失敗なんでしょうけど)。 記事にもありましたが、いくらくよくよしても、失敗は無くならないんですよね。なので、そこからいかに学び、改善していけるかで、人は成長していくと。そして、失敗にしても成功にしても、行動しかたらこその結果であり、行動なくしてはそもそもの結果すら得られないと、話は展開していきます。いちいちもっともで、よく言われる通り、考えるばかりで動かないのは、結果何も生まれないということですよね。 僕も大小の失敗してきましたし、今も現在進行形でしていますが、大切なのは失敗した理由を考えることでしょうし、次に失敗しないように努力することだと思います。本当に、起きたことは変わらないし、いくら悔やんでも覆水盆に帰らないので、その時点からの最善を模索するようにしています。迷惑をかけたならすぐ謝る、取り返せるものがあるならすぐやる、あとはなるようになる。それしかないですね。 良くも悪くも人は忘れる生き物なので、自分も失敗の記憶は忘れないとしても薄れていきますし、他人はもっと早く忘れるもの。だから、失敗したくないのは変わらないけど、失敗を恐れて足がすくむことのないように、と言い聞かせながら、なんとかトライしています。いや、本当は避けて通りたいんですって。 そういえば、B'zの歌に「嫌な問題、大損害、避けて通る人生なら論外。生きてるからしょうがない」ってありましたね。そうそう、生きてるからしょうがないんです。しょうがないことを言ってても、それこそしょうがないので、とっとと進むしかないんですよね。さ、散歩だ散歩! よりみちし

幸福には2つの種類があるらしい。

衣替えしました。春は新しい装いがしたくなりますね。 さて。「幸福学」という学問があるそうで、前野隆司さんという方が第一人者として10年ほど前から研究をなさっていると新聞を読みました。幸せは大きく分けて「目の前のハッピー」と「中長期的な人生の満足度」という2つに分かれるそうです。確かに、今の気分と、長い目で見ての充足感というのは、似て非なるものですが、それぞれが作用して幸福につながるというのは腑に落ちる話。強いて言えば、短期的に凹んでいても、長期的にはまずまずハッピーと思えてればいいですよね。最近の言葉で言うところの、ウェルビーイング。 幸福学では、幸せを感じる要素を4つに分解しているそうで、 1、自己実現と成長(やりがい、主体性など) 2、つながりや感謝、利他性や思いやり 3、前向き、楽観性(なんとかなると思える) 4、自分らしさ、ありのまま(他者と比べない) を満たすことで、幸福感は高まるとのこと。全く異論はありません。そして、これが簡単にいかないから難しいということだと思います。 コロナによって幸せの尺度をそれぞれに見直し始め、軌を一にして働き方改革も叫ばれています。振り返ればこれまでは、自分自身の幸せというものに、あんまり面と向かって考えてはいなかったかもなぁと個人的には思います。それでも特別大きな問題はなかったし(恵まれてます)、20年前までは社会全体も概ね良い方に向かっているような気がするという空気だったようにも思います。自分が無知だっただけというのもありますが。 改めて自分の幸福感でいうと、好きなことをやる、周りはコントロールできない、がベースにあるかなと思います。僕は運動が好きなので、なるべく運動をすることでずいぶんと満たされます。いいことばかりではないですけど、悪いことばかりでもないので、小さな良きニュースをちゃんと拾うようにしています。今日は天気が良くて嬉しいとかそういうレベルの。あとは、周りの目は気になるんですけど、でもどうしようもないことの方が多いのでそこを気にしすぎない、でしょうか。 逆の立場で考えると、僕は他人のことってそんなに気にならないのです。例えば、自分のズボンのチャックが開いてたら恥ずかしいんですけど、でも誰かのチャックが開いているのを自分が見て思うことは「あらら。でもま、そういうこともあるよね」なんです。だから、自分のチャックが開

銃なんて、持たされてたまるか。

NBAはいよいよプレーオフ。ひいきのペリカンズが滑り込んで嬉しいです、はい。 さて。昨日(4/16)の日経新聞朝刊に、作家の辻原登さんによる、装幀家・菊地信義さんを偲ぶエッセイがありました。そこで菊地さんが残したというこんな言葉に深く感銘を受けたので、引用させていただきます。   「スマートフォンの画面をなぞる。読むのではなくなぞる。書くのではなくなぞる。書くは、刻む、引っ掻(か)くの掻くから来てるんですよ。そのうち指すら使わずにすませるようになる。無精になり手持無沙汰(てもちぶさた)になった手に、持つのではなく持たされるのは銃だと思うよ」 ウクライナ危機を言い当てているのかとさえ思いますが、もうひとつ思ったことがあります。あらゆるものが便利になって省略されて、文字通り「手応え」がなくなっていく。手応えがないと、当然のごとく行為に対する実感が失われていく。すなわち罪悪感すらも感じにくくなる。記憶にも残りにくい。 ネットで起きる誹謗中傷もそうでしょう。手応えがないから誰かを傷つけることに想像がいかない。例えば仕事中に、僕も似たようなことをしている。面と向かっては言いにくい、都合の悪いことや反対意見を、メールやメッセージでならぶつけられてしまったりする。なんならより強い、攻撃的な言葉で。あるいは無機質で誠実さに欠ける表現で。こうすれば自分が同時的直接的に傷つくことはないから。 同じ内容を紙とペンを使って掻きつけることができるだろうか。書いている途中に、我に帰るんじゃないかな、何やってんだ俺?って。直接言った方が早いやって。そのとき、その手から銃は消えているような気がします。 「持たされている」というと誰が持たせたんだという話になりますね。その銃を持たせたのはプラットフォームでも時代でもなくて、自分自身だということも、忘れないようにしなければ。 無精は僕たちの見えざる敵だと考えさせる言葉でした。便利の裏に潜む強敵に知らぬ間に飼い慣らされてしまわないように。そのためには、手も足も頭も心も、よく動かさないとですよね。よーし、散歩でも行くか! よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

誰もがみんなクリエイティブだったときのこと。

ちょっと前まで2020年を心待ちにしていたきがするのに、もう2022年の1月が終わったとかいって、嘘だろ?って思う今日この頃。本当なんですよねーこれが。 さて。コロナによって人との関わりが減ったわけですが、新しい仕事を覚えるのもなかなか難儀だよなと思ったりしています。マニュアル通りに遂行することはできるものの、教わるほどでもないちょっと気の利いたテクニックとか、なんとも言えないトラブル対応とか、わざわざ時間取るほどでもない素朴な疑問とか、そういうのって周りの人がしている電話とか雑談とか飲み会から学んだり、盗んだりしていたよな〜とか思うんですよね。 それはさておいて、日経新聞(1/27朝刊かな)に寄せられていた作曲家の藤倉大さんのコラムにいいことが書いてあったので引用させていただきます。 「 自分の作品は自分の子どもと同じで、比べようのない愛情が注げる。クリエーティブにはそういう力がある。その力が、今こそ求められている。 自分はクリエーティブじゃないと思う人がいたら、忘れているだけ。子どもに作曲を教えると、みんなアイデアが湧き出てくる。音楽ってこういうものだよ、と大人が教えるうちに、そがれていってしまうのだと思う。 だから自分のなかの火を、探してみて欲しい。楽しければ音楽でも、美術でも、テレビゲームのストーリーを考えるのだっていい。誰かに見せる必要も、お金になるか考える必要もない。わくわくする、熱中する、そういうことが人間を救い、豊かにするのだから」 本当にそうなんだよな、と思います。みんなクリエイティブなはずなのに、どこかで見えない線を引いてしまう。僕も知らず知らず経験則に引っ張られて、その枠の中で物事を考えてしまっていること、よくあります。 もうひとつ、先週のセブンルールに『13歳からのアート思考』の著者である美術教師の末永幸歩さんが出演していたのですが、彼女の授業がとてもよくて、末永さんに教えられた高校生がクレヨンと画用紙で最高に独創的でクールな作品を生み出していました。 藤倉さんや末永さんの話を聞いていて思うのは、コロナがどうだ、なんだかんだってのはあるんですが、そういう枠組みや線引きを乗り越えるためのクリエイティブな能力を、きっとみんな持っているはずなんだってこと。それを取り戻したり思い出すのに必要なのは、好奇心や探究心なんでしょうね。 導入と着地がめちゃく

「無駄づくり」とは、なんて素敵なコンセプト。

11/24水曜日おはようございます。第3戦も手に汗握りましたよね〜(日本シリーズ)。 さて。ちょっと前のセブンルールに出てらした藤原麻里菜さん。初めてお見受けしたのですが、今注目の発明家で、そのコンセプトがズバリ「無駄づくり」というもの。「キレるルンバ」とか、まるで役に立たないであろう、ずばり「無駄」なものを発明(工作)する方だそうです。アレクサ用黒電話、最高だったな。 番組で紹介されていたその奇抜なアイデア、とてもユニークで楽しい気持ちになりました。ご本人のやや体温低めな感じと、マイペースなリズム、斜め上の発想に、意外とロジカルでもある面、そして無駄にたどり着いた感じも、とても好感が持てて。高校時代、好きな人のことを彫刻にしたのが創作の始まりというのも、イカスぜ! だいたひかるさん的テンションだなと思いましたが、実際、藤原さん吉本興業に所属なさっていたそうで(今は退社)。 時短がもてはやされて、生産性があちこちで取り沙汰される今、無駄ってときに肩身が狭いところありますけれど、よりみちるずとしては無駄は愛すべきものなので、ものすごいシンパシーだったんですよね。合理を突き詰めるとわりと同じになっていっちゃうので、面白くないこともありますよね。僕はわりと合理的な人間なので、だからこそ無駄に惹かれるというか、憧れるというか、そういうところがあります。 こういう方が注目されていること自体が、みんなが実は無駄を求めているってことでもありますよねー。YouTubeでその発明が見られるようなのでぜひに! 無駄づくり=よりみち、しながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

アウトプットが先で、その後にインプットがある

年賀状今日書きますすみません。 インスタグラムはじめてひと月が経ちました。読んでくださっている方、本当にありがとうございます。とりあえず毎朝投稿というスタイルで落ち着きました。ブログみたいですがご了承下さい。 やってみると、毎日何か書くことを探すわけで、これは良い傾向だと感じています。ネタ探しのために出歩いたりインプットしたり。ほぼ日で糸井さんも書いてましたが、アウトプットが先でそのあとインプットがある、この順番が大事、というのを身をもって感じる今日この頃。 併せて12月から始めたバレットジャーナルも継続してます。だいぶ亜流で、まだ効果と呼べるものは感じてませんが、毎朝前日を少し振り返るこの作業がわりとお気に入り。 それから朝の通勤電車は読書に変えました。それまでスマホで新聞読んでましたが、新聞は隙間時間に読むことにして。なかなか本を読む時間がないな、と思ってましたが学校の「朝読」(って僕の学校にはなかったですけど)みたいでいい感じ。 朝活ってほどのものではないですが、生活にリズムを作るのはいいことな気がします。昔、朝時間という特集もやりましたが、コーヒーをハンドドリップするとか、朝ごはんに一工夫とか、ストレッチするとか、白湯を飲むとか、いろんな習慣を持ってる方がいました。些細なきっかけで整うことってあるものですよね。 ノートと本という荷物が増えたことは難点と言えなくもないですが、その分楽しみが増えたのでマイペースで続けていきたいと思います。よろしくお付き合い頂けましたら幸いです。 写真は我が家のカレンダー。3年連続で三沢厚彦さんのanimalsシリーズのもの。思えば三沢さんとの出会いはアート特集なので、僕の生活はほんとオズマガジンで作られてます。 いい1日を。