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コミュ不全の僕たちが抱え始めた小さな闇のこと


マジで日傘検討するレベルの暑さですね。。


さて。昨日綿矢りささんの新刊『嫌いなら呼ぶなよ』の感想書きましたが、コミュニケーション不全はひとつのテーマだったように感じます。ちょうど似たようなテーマのコラムを日経で読んだので、思うところなどを書いてみます。


前提として、現代は「シンギュラリティー(個別性の意。AIがヒトを越えるあれとは違うのか?)」の時代だそう。多彩な情報と多様な価値観が広まり、一律的で固定的な考えの押しつけを嫌う(男はかくあるべし、的な)。昨今言われる多様性のことと思っていいでしょう。どんな個性も否定されるべきではないし、受け入れられるべきである。まっこと、その通りだと思います。


でも、それゆえに、共通性を維持することがとても難しいとも感じる。すべての価値観が一致する人なんていないわけで、その差異をどこまで許容できるかも、人によってずいぶん違ってくるだろう。5割一致すれば多いほうとみなすのか、8割一致でもまだ足りないと思うのか。大筋は一緒だけどディテールが違うとき、それでも一緒に歩みを進められるのか。それもまたシチュエーションによって変わるでしょう。無数の変数の中で、他者との関係をどう切り結んでいくのか。いちいち全部考えていくのもめんどいしね!


摩擦や衝突はできれば避けて通りたい。炎上なんてもってのほかだ。そうするとどうなるかといえば、リスクヘッジを最優先して、当たり障りのないことだけを言い、周囲の顔色を窺いながら、やがて心地いい内輪の世界に閉じこもることになるはず。確かに自分でも、余計なことは言わないでおこう的マインドは、昔よりも強くなっているので(年を取って丸くなった以上に)、これは決して大げさではないように思う。何より、どんな意見にもそれなりの理屈はある以上、それはもうそれぞれの個性であり好き好きだとすると、口をはさむ余地なんてなくなっちゃいますよね。個人の自由さ。


コラムでは、その先に起こることにも触れているので、引用します。

「お互い踏み込んだり、踏み込まれたりしない、ゆるやかな多様性の世界は、実は自分の身の回りに異物が入ってくることを正義の押し付けとして排除する、専制の空間ではないか。自分は寛大だという人の多様性は、実はかなり狭いのではないか。「よく考えたけど決められない」という一見誠実にみえる態度は、一部の信念ある(カルト的なものも含む)人たちの要求を黙認し、加担する結果になってはいないか。チームの内部ではとても優しく人間的だが、外部には冷淡かつ冷酷なリーダーは、親密性の専制と無縁なのか。」


一見寛容であることが、実は逆転して不寛容を生んでしまうことへの指摘ですね。すごく理解できるし、共感もしてしまう。公共の場での衝突を避けた結果が、私的な場での専制につながるって、なかなか恐怖だと思いました。でも、綿矢さんが描いていたのって、まさに「親密性の専制」に他ならなかったと思います。誰もがもちうる小さくてポップな闇だ。


このリトル・ポップ・ブラックホールにどう対抗すればいいんでしょうね。違いを違いとして楽しむしかないのではないかと思います。自分に染めるでもなく、摩擦を回避するでもなく、違いを認め合いながら共存できるように。うん、難しそうだね! 仲良くない人と無理して一緒にいる必要はないけど、仲良いの範囲を自分で狭めてしまうのは本末転倒なのかもしれないね。真の寛容性ってそういうことなのかもな。


よりみちしながら、いきましょう。寛容でいられるように。今日も、いい1日を。




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