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失敗を成功の基にできるように。


美術館に行きたいのですがなかなか時間が取れません。Chim↑Pom見に行かなくては!

さて。日経新聞の「こころの健康学」という連載が好きなのですが、そこで「失敗は失敗で終わらない」という記事がありました。若い頃は特に、若くなくてもですが、人はいろんな失敗をしてそこから学ぶという趣旨なのですが、とても共感できる内容でした。

ざっくり言うと、失敗した後が大事という話です。失敗は悔しいし、恥ずかしいし、できれば避けて通りたいものです。でも、失敗したことのない人なんて恐らくいないし、そもそも何が失敗なのかは実は人によって定義も分かれるところだと思います。仮に今失敗してでもそのおかげでのちの成功が生まれるんだとしたら、それって失敗だったのか?って感じですし(失敗なんでしょうけど)。

記事にもありましたが、いくらくよくよしても、失敗は無くならないんですよね。なので、そこからいかに学び、改善していけるかで、人は成長していくと。そして、失敗にしても成功にしても、行動しかたらこその結果であり、行動なくしてはそもそもの結果すら得られないと、話は展開していきます。いちいちもっともで、よく言われる通り、考えるばかりで動かないのは、結果何も生まれないということですよね。

僕も大小の失敗してきましたし、今も現在進行形でしていますが、大切なのは失敗した理由を考えることでしょうし、次に失敗しないように努力することだと思います。本当に、起きたことは変わらないし、いくら悔やんでも覆水盆に帰らないので、その時点からの最善を模索するようにしています。迷惑をかけたならすぐ謝る、取り返せるものがあるならすぐやる、あとはなるようになる。それしかないですね。

良くも悪くも人は忘れる生き物なので、自分も失敗の記憶は忘れないとしても薄れていきますし、他人はもっと早く忘れるもの。だから、失敗したくないのは変わらないけど、失敗を恐れて足がすくむことのないように、と言い聞かせながら、なんとかトライしています。いや、本当は避けて通りたいんですって。

そういえば、B'zの歌に「嫌な問題、大損害、避けて通る人生なら論外。生きてるからしょうがない」ってありましたね。そうそう、生きてるからしょうがないんです。しょうがないことを言ってても、それこそしょうがないので、とっとと進むしかないんですよね。さ、散歩だ散歩!

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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