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銃なんて、持たされてたまるか。

NBAはいよいよプレーオフ。ひいきのペリカンズが滑り込んで嬉しいです、はい。

さて。昨日(4/16)の日経新聞朝刊に、作家の辻原登さんによる、装幀家・菊地信義さんを偲ぶエッセイがありました。そこで菊地さんが残したというこんな言葉に深く感銘を受けたので、引用させていただきます。


 「スマートフォンの画面をなぞる。読むのではなくなぞる。書くのではなくなぞる。書くは、刻む、引っ掻(か)くの掻くから来てるんですよ。そのうち指すら使わずにすませるようになる。無精になり手持無沙汰(てもちぶさた)になった手に、持つのではなく持たされるのは銃だと思うよ」


ウクライナ危機を言い当てているのかとさえ思いますが、もうひとつ思ったことがあります。あらゆるものが便利になって省略されて、文字通り「手応え」がなくなっていく。手応えがないと、当然のごとく行為に対する実感が失われていく。すなわち罪悪感すらも感じにくくなる。記憶にも残りにくい。


ネットで起きる誹謗中傷もそうでしょう。手応えがないから誰かを傷つけることに想像がいかない。例えば仕事中に、僕も似たようなことをしている。面と向かっては言いにくい、都合の悪いことや反対意見を、メールやメッセージでならぶつけられてしまったりする。なんならより強い、攻撃的な言葉で。あるいは無機質で誠実さに欠ける表現で。こうすれば自分が同時的直接的に傷つくことはないから。


同じ内容を紙とペンを使って掻きつけることができるだろうか。書いている途中に、我に帰るんじゃないかな、何やってんだ俺?って。直接言った方が早いやって。そのとき、その手から銃は消えているような気がします。


「持たされている」というと誰が持たせたんだという話になりますね。その銃を持たせたのはプラットフォームでも時代でもなくて、自分自身だということも、忘れないようにしなければ。


無精は僕たちの見えざる敵だと考えさせる言葉でした。便利の裏に潜む強敵に知らぬ間に飼い慣らされてしまわないように。そのためには、手も足も頭も心も、よく動かさないとですよね。よーし、散歩でも行くか!


よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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