スキップしてメイン コンテンツに移動

ミュージアムはサードプレイスだ。

日経新聞の「再生ミュージアム」という建築家の青木淳さんの連載が楽しかったです。デンマークの「ルイジアナ美術館」と「弘前れんが倉庫美術館」にとても行きたい。

さて。同じく日経の寄稿で「美術館は情操を育む第3の場だ」という記事がありました。自宅と職場に次ぐ第3の場=サードプレイスはカフェなどがよく挙げられますが、確かに美術館もサードプレイスたりうるなと目からウロコです。まあ、一部の超人気展覧会(コロナ以降は入場制限でそういうのなくなったのかな?)だと落ち着かないけど、それはそれとして。

ポイントは「情操」で、情操教育などの言葉がありますが、今ネットで辞書引くとこう書かれていました。

「道徳、宗教、芸術、学問など社会的価値をもった感情の複合という意味でとらえられる場合。絵画や音楽を鑑賞するとき、情動のようなはっきりしたものではなく、なんとなく心が洗われるとか、身が引き締まるとかいう感じになることがある。このような漠然とした、いくつかの感情が複合したような状態をいう。この情操を身に備えた人間は、社会的価値のうえで高く評価される。一般にいわれている情操教育の情操というのは、この意味で用いられていることが多い。」

難しいなヲイ! でも、「漠然とした、幾つかの感情が複合したような状態」というのはいいですね。つまり簡単には言葉にできないということです。本人もこれがなんだかわからないやつ。合理性とは対極にありそうなこういう情操と向き合うことが、私たちには必要なんだと思います。そしてそれは答えのない問いを手に入れようとする姿勢であり、昨今盛んに求められているやつであり、それと出会いやすいのが美術館という場所、特に現代美術かもしれません。

自分が美術館に行くのが好きな理由を言い当ててくれているような、個人的には刺さる良記事なのでした。リンクはこちらです。

そういえばここのとこ美術館に行けてなくてイケてないぜ。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

コメント

このブログの人気の投稿

相模原camp

さて。キャンプ行ってきました。我が家は道具無しの素人なのでバンガローに宿泊して、ふとんもレンタル。食事類はすべて友人家族におんぶにだっこ。感謝しかありません。 向かったのは相模原のほうの青根キャンプ場というところ。とにかくお天気に恵まれて、夜〜朝こそひんやりしましたが気持ちよくて。バンガローはきれいでエアコンもあったので快適そのもの。 子供達もいろいろ手伝ってくれてお昼はカレーを作り夜はお鍋を作り、翌朝はホットサンド。燻製もあったりどれもこれも美味しくて。自然の中でいただく手作り料理。ベタですが本当に最高ですね。 施設内に大浴場があるのも嬉しいし、川も流れてて釣りや川遊びに興じることも。2日目は近くの宮ヶ瀬湖で遊んで帰りました。とにかく子供たちが楽しそうで、多幸感あふれるキャンプになりました。めでたし。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

感想_天気の子

  『天気の子』(2019年公開)鑑賞。異常気象で雨が降り続ける東京に、神津島から家出してきた16歳の帆高。ある日知り合った陽菜というもうすぐ18歳の子は、祈るだけで晴天をもたらす不思議な力を持っていた。ふたりは、その能力を仕事にしはじめて。 前作『君の名は。』がとても面白かったので期待もありつつ、世の評判はけっこう割れていたようで、とても楽しみでした。そして、すっごく楽しめました。 ハリウッドリメイク意識か!?(してほしい!)というくらいのディザスター感、チェイスアクション、そしてジブリなみのファンタジーで、やりすぎ感すらあったと思いますが、やはり真骨頂はジャパニーズ青春エンタテイメント。美しいアニメーション、花火大会の奥行きとかすごいですね。実写にするならぜひ3Dで観たい。 いろんなポイントがあったと思いますが、いちばん感じたのはイノセンスを問われるなぁということ。「君の名は。」以上に、ふたりの主人公の関係に力点が置かれていて、ファンタジーでありながらも真っ直ぐな感情の動きに、思わず涙ぐみました。この真っ直ぐさを受け入れられるか、言い換えると「きれいなものをどこまで信じていられるか」で評価が割れそうな気がしました。 知らぬ間に陽菜を損ない続けていた帆高の自責の念はどれほどだったか。それを思うと、山手線の線路内を走る非現実的にも見えるあのシーンは「ありえない」ほどの想いをちゃんと表現してくれたシークエンスだと感じました。 雨が降り続いた東京は、どこかコロナと共生する今の自分が重なります。どんな苦難があってもそれでも僕たちはそこで生きていくし、物語は続いていく。もちろん去年の段階でそんなことを考えていたはずはなく、それだけ本質をとらえていたということでもあると思います。 天気や生死、運命など、世界にはどうにもならないことがたくさんあるけど、その中でそれぞれに役割を探しながら生きている。大事なのは、ちっぽけな僕たちでも、確かに世界のカタチを変えうる瞬間というのはあるんだということ。須賀のいうとおりそれはただの自惚れ、思い込みかもしれないとしても。 追っ手を振り切って屋上を目指す帆高に、須賀は逃げるなと言った。帆高...

鑑賞_生まれておいで 生きておいで

さて。東京国立博物館で開催中の内藤礼の企画展「生まれておいで 生きておいで」鑑賞してきました。とんでもなく良かったなこれは。 展示は大きくふた部屋+1。まずは平成館の展示室ですが、入った瞬間この人やっぱ天才だなと。薄暗い室内に、小さくてカラフルな毛糸玉がテグスで吊り下げられています。頭の高さの少し上くらいにランダムに並ぶそれはそれらは小惑星のようであり、生命体のようでもある。とてもささやかでシンプルなのに、おごそかで美しい。 何気なく置かれる木や石、展示ケース内に敷き詰められた白フェルトも作品だよね。 わずかにゆれる小さな風船、ガラス玉? 鏡に材質不明の板も、あ、鈴もあった。鑑賞者が行き交う姿すら取り込んで景色にしてしまう神業です。そーっと息を吹きかけると小さくさざめくのもまたよき。もしかしたらケースの向こうが死者のゾーンなのかもしれない。 それは普段からそこにあるのに見過ごしているような、まだなにかの形にもなる前の(胎児のような)、あるいは形としての役目を終えた後の、精霊のような魂のようなものに思えてきます。見えるものと見えないものの間にある、もしくはずっとそこにあるのに見過ごされてきた、なにか。お盆に見るに相応しいな。今日は終戦記念日だ。 次の展示室に移動すれば天才の偉業その2。空間との調和が半端じゃない。小さきものに目を凝らし、歩き、しゃがみ、想いを致す。木片の上の毛糸の切れ端、ケースの隅の微細な紙片、木彫の下に佇む陰影、ガラス玉の連なりを透かす光、そっと立てかけられた小枝、キャンバスの絵の具は描いたというより映し取るように。観てると思考と言葉が自然と湧き出てくるのが心地いい。物と物の距離、偶然のような必然のようなバランス、全てを包むような白いフェルト。あるものと、ないもの。 自然光を取り込んだ空間なので、あ今陰ったな、とわかる。真っ白だったキャンバスは時間と共に彩られていく。しかしそれもやがて無に帰すということ。始まりと終わりとその輪廻という永遠。光と影、生と死、黄泉のつがいよ。歩み寄らないと見えない銀のテープ。この展示室は以前は仮囲いがされ絨毯も敷かれていたそうですが、作家の意向ですべて剥がされオリジナルの空間が蘇ったそう。 この博物館には太古のアイテムが多数ある中で、内藤礼の現代美術作品がそっと溶け込む。それによって 生と死や光と陰のように対になるもの、...