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ラベル(閑話休題)が付いた投稿を表示しています

約束事は思考停止と紙一重

保育園の運動会が3年ぶりにほぼ制約なしの開催。でも小学校はかなり限定的な開催。もう少しの辛抱ですかね。 さて。ぼんやりと「約束事」のことを考えました。約束事があると、その事柄についての判断が不要になるので、便利です。決まった状況において、いちいちどうしようか考えなくてよくなるし、チームの意思統一も図れる。それは合理的。 でも、約束事は万能ではない。状況がまったく変わらなければずっと同じ効力を発揮するのでしょうが、あらゆる状況は変わるので、その変数がどこかで無視できなくなります。また、約束事を守ることが第一義になり始めると、本来の目的を見失うというあるあるも。 約束事はあくまでツールなので、定期的にメンテナンスが必要ってことですね。道具はどんどんアップデートされるし、そもそもの必要性だって疑わないといけない。ルールは時代にあわせて変わるし、それを盲信するのは思考停止に他ならない。 と、長男のラグビーを見ながら、もう少しディフェンスの約束事がほしいな〜と思った次第。でも子供たち素直だから、約束事を守ることが大義になっちゃいそうで、それはちょっと勿体無い気もするんですよね。かといってルールの意味まで考えさせるにはちょっと早いだろうしな〜。 仕事も暮らしも同じですよね。みんなで動くためにはルールは大事だけど、その意味をよく考えながら近視眼的にならずに改善していかなくちゃ。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

産後パパ育休が始まりますよ

機関車トーマスのビジュアルが変わることが話題ですが、すでに世界観は相当変わってて驚くぜ(超グローバル&多様性)。 さて。10月から産後パパ育休なる制度がスタートするそうで。子の生後8週間以内に最大4週間(2回に分割化)の休暇を父親が取得できるようにする制度。 制度があることで育休取得が増えて、ハッピーになる人が増えるといいなあと素直に思います。取る取らないは自由だし、取りたいのに取れないということがなくなりますように。 個人的な感覚では、自分の周りでは男性の育児参加はずいぶん進んでいるように思います。保育園の送りもお迎えも、男性の姿をけっこう見ますし(お迎えは比較的少ないかな)、会社でも小さいお子さんのいる女性が遅くまで仕事をしているのを見ると、お父さんが子供の面倒見ているのかなと。 各家庭ごと、ご夫婦ごとに考え方や事情がいろいろあるでしょうから、それぞれに納得感があることが大事。本人たちがよければ、専業主夫であろうと、女性が時短勤務だろうと、構わないわけで。正解は家庭の数だけある。 問題があるとすれば、当事者以外がその実態を知らないってことなんですよねー。特に、すでに子育てを終えている50〜60代以上の方に、理解がないようには感じています。僕の父親も子育ての子の字もなかったですし、母親すら「今の男の人は大変よね」なんて言ってます。 会社の上席や中枢に近いところの理解が深まるとさらに柔軟性は増すのでしょうね。やはり女性管理職増やすことも切り離せないか。とはいえ僕が知ってるのも、自分の知りえる範囲でしかないのですが。 つくづく、知ることって大事。体験するのはもっと大事。夫婦2人であたる育児と、ワンオペ育児にも天と地ほどの開きがあるなと実感する今日この頃。産後パパ育休取って終わりではなく一瞬で過ぎ去る始まりでしかないので、「育休取ったからもういいでしょ」みたいな空気は各方面なしでよろしくお願いします。 他人の靴を履いてみるですね。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

スポーツと非認知能力

台風の影響で横浜市は緊急警報鳴りまくり。マクドナルド中でこだましてました。 さて。台風一過の本日は子供のラグビーへ。気持ちのいい秋空で、こんな中でスポーツできてうらやましいぞ(もう2年半も自分が球技していないとか信じられないな)。今、十分な自由時間があれば、習い事したいです。楽しく自分を向上できたらこんなに素晴らしいことはない。なんてことはさておき。 子供にいくつかのスポーツを体験させていて、ここにきて主体的に楽しんでくれるようになってホッとしていたところ、幼少時のスポーツによって非認知能力が高められるという話を聞きました。非認知能力とは、意欲や協調性、忍耐力、創造性、思いやりや勤勉性など、数値化しにくい能力のことを指すそうで、これが高いと将来の生活が豊かになりやすいという研究結果もあるのだとか。 より噛み砕くと、「粘り強く最後までやり遂げる遂行力」「自分の感情をコントロールする力」「計画を立ててそれを実行する力」とも表現できるようで、確かにこれは大切なことだと共感しますね。そして、スポーツがその発達に寄与するというのも、個人的には納得感があります。自分もスポーツでこれらの力を育ててもらった気がします。 約束事のもとでプレイし、決まった目標に向かって進むこと。うまくいくことばかりではもちろんないし、望んだ結果が出ないことも多い。でも、それを楽しみながら工夫しながら乗り越えていけるかどうか。リフティングが10回できたらとても嬉しかったし、逆立ちで7m歩けた達成感もものすごかった。県大会で負けた時は悔し涙も流したし、そういう悲喜こもごもが非認知能力とやらにつながっていたんだな。自分が勤勉で忍耐力や自制心があるなんて、おこがましくて言えないですけどね。 ラグビーのルールなかなか複雑ですが(1年生はタグラグビーです)、子供達は少しずつ規律を学び、挨拶ができるようになり、一生懸命ゴールを目指し、あれこれ考えながら仲間たちと協力し、大きな声を出し、勝てば喜び負ければ悔しがっています。まだまだ集中力はないし、全体感はよくわかっていないだろうし、技術も全然ですけれど、目に見えて成長していっていることは確か。 スポーツが全てではもちろんありませんが、「こういう楽しみがある」ということを知ってもらえたらいいなと思っています。非認知能力? まあ、あくまで副産物ですよね。スポーツをそういう

防災イベントのありがたみ

台風の行方が心配ですね。被害が出ないことを願っております。 さて。近所の公園で防災イベントがあったので子連れで見てきました。消防車各種が並び、ハシゴ社のハシゴに乗れる体験、放水体験、衣装貸し出しなど、いろんな催しが。水遊びゾーンやバルーンアートプレゼントなど、子供を楽しませるコンテンツもいろいろ。お菓子なども無料でいただけたり、楽しい時間を過ごせました。 本題の防災ですが、神奈川県による避難ナビのアプリを入れたり、防災ハンドブックをあらためて読んだり。一応ハザードマップくらいは確認していて、自宅ロケーションは大きな被害が想定されるエリアではないと思うのですが、いつ何があるかわかりませんものね。最低限の防災セットもあるにはありますが、もう少し拡充しとこうかな。 災害はないに越したことないですが「起きない」と断言できる根拠はないし、むしろ「起きるもの」と考えておいたほうがいいのかもしれないと今回参加しながら思い始めました。 防災に備えることが大きな負担になるわけでもなくて、ただただ多少面倒臭いだけでしかない。だとしたら「備える」という選択肢を排除する理由はないぜ。よし、さっそくリストをチェックだ! 話は変わりますが、パンフレットにて「うんこドリル」を初鑑賞。確かに憶えやすいけど、肝心なところよりうんこを憶えてしまいそう。「川からゴールデンうんこが流れてきたら」とかさ…。 とかなんとか言いながら。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

ウォーカブルシティに幸あれ

ついにPayPayを導入しました。友人間での送金ニーズが多くて。 さて。新聞でウォーカブルシティ増加中的な記事を読みました。全国の市街地で、より歩きやすい街づくりが志向されているようで、賑わいが生み出された成功事例も出てきているとか。大分県や東京で特に多いらしく、横浜だと、関内駅の旧市庁舎跡も、ウォーカブルにするプランがあるそう。 具体的には、歩道を広げたり、ベンチや公園を整備したり、店舗の誘致にマルシェを企画したりといったことで、確かにそういうの増えてますよね。池袋東口とか、名古屋の久屋大通とかがわかりやすい事例でしょうか。 常々、歩くこと=よりみちを推奨している当ブログとしては、とても嬉しいことだと思います。歩きやすいハードと、歩きたくなるソフト。脱炭素社会に貢献し、ヘルスケアにも好影響、にぎわいが消費を促せばそれは街を巡ってさまざまなところに還元される。 歩くスピードは僕たちがものを考えるにはちょうどよく、他者とのコミュニケーションも容易にとれる距離感です。雲の流れも、雨の匂いも、影の濃さも、歩くことでより繊細に感じ取れて、いいことづくめな気がするんですけどね。暑さや寒さは、街角のお店でのんびり回避しましょう。 日本中に、歩いて楽しい街が増えたら、観光ももっと楽しくなるでしょうね。というか、歩く楽しみを思い出すことが最初の一歩なのかもしれません。遠足が待ち遠しかった頃みたいに。歩くって苦痛や修行じゃないはず。近所は宇宙だしね。あと誰でも歩きやすいユニバーサルデザイン。 よりみちしながら、いきましょう。ウォーカブルな街に幸あれ。今日も、いい1日を。

タイパの時代のエトセトラ

家人がディズニープラスに加入するようで喜んでおります。マーベル見るぞ! さて。倍速の時代と言われ、タイムパフォーマンスが重視される昨今です。映画を何倍速で見るかは、個人の好みに委ねられたわけで、目玉焼きに何をかけるかと同じ話になってきたようです。イニシアチブが作り手にないのは切ないといえば切ないけれど。 とにかくコンテンツの楽しみ方が激増し、それに伴ってコンテンツも爆増し、それらの周りに広がるSNSなども鬼増した今、時間が足りないのは当たり前の話で、どうやって時間を捻出するか、みんな頭を悩ませていると思います。そりゃ何もかも時短に済ませたくなるよ。悩んでる時間ももったいないよ。ライバルは睡眠と言った人もいるよ。 40半ばとなった今だからから「そんなに急いでどうすんねん」と思わないこともないのですが、20代の頃は「スローライフ? 冗談じゃないよ」って思ってもいました。「むしろファストライフじゃい」とさえ思っていたかな。いろんなものを吸収したかったし、たくさん欲しいと思っていました。質も量も妥協したくなかった。 こういう話って、結局のところ突き詰めていくと、個人の好き好きということに落ち着くのだと思います。速いのが好きな人も、遅いのが好きな人もいる。質を求めるのが好きな人も、量を求めたい人も、どっちもな人も、いる。どっちもいらない人だって、当然いる。何にもいらないという人も。 だから、自分がどこに属していても構わないと思うし、自分とは違う派の人をどうこう言っても仕方がないのです。ただ、統計的な結果や、傾向というのは、確かにあるものだと思うので、それはそれで知識として受け止めておけばいい。少なくとも以前は倍速機能が備わっていなかったし、実行する人も今ほどは多くなかったわけで、これまでにない変化であることは確かだ。背景に何があるのかという考察も、知ってて損はないでしょうね(得があるかは知らない)。 Z世代で一括りにするのは本質的ではないのでしょうが、それってあくまでマーケティングでしかないし、これ以上に便宜的な言葉がないというのもおそらく事実なわけで、そこに噛み付いても仕方がないのかなと。 一番大事なことは、自分は映画(であれ、なんであれ)を倍速で見たいと思うのかどうか。それはなぜなのか。を知ることなんじゃないかと思います。自分がどの価値に重きをおくのかを知っておくと、判断

今年も9.11を思う。

朝、空を見上げたらハート型のような、人物の上半身のような雲が浮かんでた。 さて。9.11から21年が過ぎました。21年前に起きた遠い異国の未曾有の事件は、その当時の無知な僕にはあまりピンと来ていなかったのに、年々重みを増しているような気がする。というか、毎年律儀に今日は9.11かって思うのは何ででしょう。 今思い出しても、当時の記憶は飲み会から友人と帰ってぼんやりテレビのニュースでそれを知り、慌てる友人を横目に「ふ〜ん」くらいの感想でほどなく普通に寝たということくらい。あとはその後、『ユナイテッド93』や、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』など、9.11に題をとった映画で想像した程度です。 多分、9.11が自分ごとに近づいたのは、3.11以降です。種類は全然違うけど、前例のないできごとで、多くの命が失われました。NYではそれは最悪の日であったと同時に、多くの人が結束し、希望の日にもなったと、ネット記事で読みました。3.11にもそういう側面はあったと思う。 だけれど、新型コロナはなかなかそうはなりませんね。全世界を同時に覆い、多くの人を苦しめているのは同じなのに。人々が集うことを許さない性質のせいなのですかね。それとも、2001年や、2011年とは、決定的に何かが違ってしまったのでしょうか。 9.11も3.11も、僕はそれらで何も失っていないので、何かを語る資格はありません。でも、そこにいた人たちの哀しみや苦しみを思うとどうしようもない恐怖を感じますし、なんというか、生かされていることのありがたさを喜び、感謝して、希望を持って生きていきたいと思うのです。この日がやってくるたびに。そして、せめていくらかでも善い行いをしないとバチがあたるよな、とも。 何を大袈裟な、と思われるかもしれませんが、そんな気分です。半年後も、1年後も、似たようなことを思うのかな。そう思えたとしたら、無事に月日を過ごせたということですね。そうでありますように。 でも、そうじゃなかったとしても、前を向いていられるように。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

みんな、行ってしまう。

エリザベス女王のご冥福をお祈りします。 エリザベス女王のこと、よく知りませんが、オリンピックでのジェームズ・ボンドとの共演は最高でしたよね(ヘリから降りてきたのはスタントだったと今回初めて知った)。年齢よりもお若く見えていたので、まだまだご健在のような心持ちがして、残念です。 京セラの稲盛さんだったり、三宅一生さんに森英恵さんなど、ここのところ著名な方が世を去ることが多いように感じています。自分も中年になって、名前を知っている人が増えたからですかね。第一人者とされる方達の訃報に勝手に寂しさを感じています。 自分も含めた誰もがいつかはいなくなってしまうこと。その当たり前の終わりを、少しずつ意識し始めるようになりました。10歳の頃、そのことを思ってベッドで枕を濡らした記憶があって、自分がいつか死ぬという恐怖を僕は意図的に遠ざけてきましたが、少しずつそういうものにも慣れてきたのかしら。 まだ何も成し遂げていないなぁという気持ちと、そもそも自分は何を成し遂げたいのだろうかという迷いと。あらためて仕事のこと、人生のことを、考えないとなと思う、秋の夕暮れでした。 なんの話かわかりませんけれども。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

夏が終わるよ。

アシックスがRUNNET運営のアールビーズ買収ですか〜! いろいろ変わりそうだな。 さて。朝晩ずいぶん涼しくなって、空も雲もなんだか穏やかで、すっかり夏の終わりですね。6月の酷暑のときはどうなることかと思ったけど、あそこがピークだったとは。 小学生の夏休みも今日でおしまいです(いつから8/31までじゃなくなったの?←10年近く前からのもよう)。お盆以外はほぼ毎日学童に通ってもらったので、これって夏休み感あるのだろうか?と思ったりもしたけど、保育園時代もそうだったし、まあ共働きのおうちの子にはこれがスタンダードでしょうきっと。なんかごめんよ、無限に続くような夏休みを味わわせてあげられなくて。 せめてもの罪滅ぼしでもないですが、夏休み最後の夜は手持ち花火を楽しみました。今時の花火は「煙が少なくて写真写りがいい」とか、「色が2回変わるよ」とか、パッケージに書いてあるんですね。火をつけるまでどんな花火かわからないのと、どっちがいいんだろ(まあどっちでもいいね)。 ひと月前につかまえたカブトムシのオスとメス。卵を産んだかしら?とマットを掘り返してみたら、ありました〜! 小さな白い卵が3つくらいと、すでに孵化したあとの小さな幼虫が3匹くらい。幼虫用のケースとマットを買って、来年の夏の楽しみができました。シングルのオスクワくんとあわせて、成虫たちはあとどのくらい生きてくれるかな。 小学生のいる夏休みは、小学校の追体験のようなところがあって、楽しいものでした。夏休み楽しかった?と問うと、いろいろ思い出を数え上げてくれてちょっとひと安心。夏は君を成長させたよね。僕もがんばるよ。 いくつになっても去りゆく夏は切ないもので。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

密なる世界を生きている

町中のトンカツ屋さんのロースがやわらかくて、副菜も充実で、大満足でした。トンカツって密。 さて。甲子園で東北勢初の優勝を飾った、仙台育英高校の須江監督のインタビューが話題になりました。「青春って密」はパワーワードでしたね。流行語大賞候補確実。 長いスピーチではなかったようですが(全文読みましたが映像は見てません)、とても気配りのある監督さんのように感じました。東北のみなさんおめでとうは、いつかのヤクルト若松監督を思い出すぜ。 ほかにもいくつか記事を読むところ、考え方がロジカルでモダンな方なのかとお見受けしました。青学の原監督に通じるような? 学生は先生で大きく変わりますね。子供は親で変わるし、職場は上司で変わるから、どこいっても同じか。 話変わってこの週末、3年ぶりの友人たちと顔を合わせて、密な時間を過ごしました。自分も含めて3年分の歳を重ねていて、ブランクを感じるでも関係性が変わるでもないけどれ、失われた時は確かにあったなと思わされました。会える喜びよ。 社会で、集団で生きる僕たちには、密なる世界は切り離せないんだなと思う今日この頃。そのありがたみを、球児たちと旧友たちから教えてもらったのでした。非・非接触ワールド。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

ガンバリズムの周縁と終焉(後編)

死んでると思った蝉が最後の力を振り絞って動くのを「セミファイナル」と言うの、知らなかったよ(うまいこと言うよね)。 さて。 昨日のポスト の続きです。個人の個性やスタイルはどこまで守られるべきなんだ問題。あらゆる個性は尊重されるべきだけど、コミュニティに悪影響がある場合にどうするか。 モヤモヤのもとを自分なりに紐解いてみると、相手に対して「そこは頑張ろうぜ」と思うところで「あんまり頑張ってもらえない」ことへの苛立ちとかそういうのなんですよね。できるできないではなくて、頑張るポイントや、頑張れるボリュームの違いへの戸惑い。頑張りって目に見えないし、数値化しにくいですもんね。そして、「そこは頑張るんかい」ってこともままある。 昔は多分割と「頑張ること」が推奨されていたけど(それがきつかった人も多かったのでしょう)、今はどちらかといえば「頑張りすぎは良くない」になってきました。この辺りの「頑張り」への考え方と、耐性とか許容量みたいなものが、世代で大きく違うし、もちろん個々人も違う。僕とかは24時間戦えますかイズムがある程度ありますもの。昭和のあれ。 頑張って健康を損なうのはもちろんダメ。でも頑張ることで越えられる壁は確かにある。かといって頑張りを強要しすぎてはいけないし、強要されたくもない。頑張ることで成長するし、頑張らないと伸びない。でも別に伸びたいと思わない人もいるし、それはその人の自由。 とまあ、ガンバリズムの周縁にはけっこう埋めがたい溝がありそうですね。何度も言うけど、それは目に見えないよ。考えるほど「ちょうどいい頑張り」を共有するのは無理ゲーな気がしてきましたぜ。 さて、ここでセリーナ・ウィリアムズ(引退寂しいお疲れ様!)がVOGUEに寄せたエッセイに金言がありましたので、引用します。 「最近、子どものやりたいことをさせるという親が多いけれど、それじゃあ今の私はいなかった。勤勉、ルールに従うよう、私は娘をプッシュする。もちろん彼女が興味をもった方向に、追い込み過ぎないように気をつけながら」 この意見をどう捉えるかも人それぞれでしょうが、僕は共感し、賛同します。勤勉さとハードワークはとても大事だと思うし、付け加えるならば献身性も重要だと考えます。あとは規律かな。 ずいぶんとスポ根でマッチョな意見に聞こえちゃいますかね。根性論とは別のつもりですが、でもまあ基本装備が

ガンバリズムの周縁と終焉(前編)

昆虫って死ぬとひっくり返るのはなんででしょうね(そうでないケースもあるのかな)。自由研究ネタだな。 さて。 昨日ポストしました芥川賞作『おいしいごはんが食べられますように』を読んで 、いろいろ思うところがあるので続きです。 「みんな自分の働き方が正しいと思っている」というセリフのわかりみがすごかったのですが、そういえば日経新聞に載ってた FTのコラムにも「20代社員とどう向き合う」という記事 がありました。記事を要約すると、会社の要求よりも自身のスタイルを優先する若手が多くて困っちゃうよねとのこと。 もちろんそうじゃない20代もたくさんいるだろうし、若者に対して年長者が不満を持つ構図はソクラテスの時代から変わらないそうです。なので、20代がとりわけ悪者というわけではなく、とにかく価値観の分断がかつてないほど大きいということが問題なんでしょうね(コロナがその大きなきっかけになったことは言うまでもなく)。 小説の登場人物の中心は入社5〜6年目だったのでおそらく20代社員で、まさしくコラムにあった問題と同じでした。(なお、コラムは海外の話なので、日本と同じとは限りません) さて、ここで多様性や寛容性の問題が出てくるから悩ましい。どんな働き方であれ、個人が尊重されるべきであると考えるのか、いやいやそんなに甘やかしてばかりもいられないよと対決するのか。仕事なので成果を上げるのがゴールだとは思いますが、ゴールのために自らをどこまで犠牲にできるのか。 犠牲なんてないに越したことはないけど、ゼロというわけにもいかない場面はたくさんある。イチならいい? ニまでオーケー? ジュウいけちゃう?? 人それぞれだろうから絶対揃えられる気がしないぜ! そしてやることやれば和を乱してもいいのか問題が日本にはありますな。どこで線を引いても不満は出そうです。 少し話は変わりますが、子育てしながら小学生相手に同じようなことを考えていて、本人の個性という名の下に甘やかしているのではないか?と非常にモヤモヤするのです。学校や習い事に行きたくないと言った時、本人の意思を尊重するのか、それとも無理やりにでも連れて行くのか。なんでもすぐ放り出す子にはなってほしくないけど、合わないことを無理強いするのもリスクがありそうだし…。ぐるぐる。 ゼロヒャクの話ではないのでケースバイケースでしょうし、柔軟な対応が大事でしょ

衣食住の「衣」について

無敵に思えた大阪桐蔭が負けるのだから甲子園って面白いですよね。 さて。ファッションデザイナーの三宅一生さん、森英恵さんの訃報が相次いで入ってきました。ご冥福をお祈りします。 お二人のこと、名前はもちろん存じていますが詳しいことは知りませんでした。それぞれの服を身につける機会もなく。でも、訃報に触れた近しい方たちのコメントや追悼記事を読んでいると、クリエイターとしてはもちろん、文化を作り上げた先駆者だったことがわかります。 印象的だったのは三宅一生さんの「衣食住の中で衣の地位がいちばん低い(から上げたい)」というもので、確かにそうかもしれないなと思いました。感覚値でしかないけど、食や住を大切にする人の数に比べると、衣を大切にする人のほうが少ないような。 なんでですかね。究極的に服は生命の維持とは直結していないからかな? 食があって、住があって、その次が衣になるのはまあ当然ですよね。逆に、衣に代わるものって何かあるかな。食が体、住が脳、衣が心、ってこじつけすぎか。でもなんとなくそんな感じで、「衣」という言葉に捉われすぎない方がいいのかも。 つまり「衣」は、被服に限らない文化全般ととらえればしっくりくる。音楽とか、アニメとか、瞑想とかもアリ。要は心を育むもの。それがアパレルでも建築でもサッカーでも大した問題じゃないですね。てのが、衣食住の真理なのかも。 自分自身が健やかであれるように。と通り一遍の結論に落ち着いたところで。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

移り変わる言葉たち

夏季休暇を頂いておりますが、ブログは年中無休です(一応)。 さて。僕は書き物が好きなので、言葉選びや言葉遣いには、それなりに気を使っています(一応)。単語の持つ響きや字画、組み合わせなどなど、比較的アンテナを張って見ていると思います。 それはなぜかと言えば、少しでもいい形で物事を表現したいから。事実を正しく伝えたり、感動を共有したり、誰かを笑わせたり、求めるものはTPOで変わるので、それ相応の書き方があるはず。一人称ひとつとっても、僕、私、自分、オレ、わっち、小生、拙者、我輩、ミー、と使い分けるわけです。 言葉そのものはすでにもう完成されてるけど、組み合わせ方で無限の広がりが生まれるもの。AppleとPenをくっつけたら大フィーバーしたみたいにね。あるいは、スケボー解説の「ゴン攻め」「ビッタビタ」あたりはオリジナルでいいなと思いました。やり方次第で新しい表現は生まれていくし、時代も人も移り変わる中でその時々にあった伝え方もまた移ろうもの。目的はやっぱり伝わることだから、ゴン攻めの定義はよくわかんなくてもニュアンスが伝わればOKですよね。ウェーイ。 言葉の力で、誰かの心を少しでも動かせるように。そんな所存でございます。よりみちしながら、いきましょう。流行り言葉も未来の格言かもしれないぜ。今日も、いい1日を。

町の蕎麦屋も消えないで

夏はカルピスソーダが飲みたくなるのですが、あんまり売ってないんですよね〜。 さて。 昨日、町中華の話をしましたが 、町の蕎麦屋さんはどうなんだろうとふと思いました。どっちのほうが軒数が多いのかわかりませんが、形態としては似ているような。中華のほうが直接の競合が多そうな気もしますが、蕎麦店が安泰てことはないですよね多分。 ということで、 横浜駅徒歩圏内の生野屋さん へ。こちら、蕎麦が美味しいのはもちろんのこと、オリジナルメニューが豊富なんですよね。「おそばやさんのタンタンめん」とかくり出してくるんですよ。で、いただいたのは、冷やしカルビ蕎麦(とろろ付き)。そんな組み合わせあり? ありなんですねーこれが。最初、蕎麦(普通に蕎麦つゆをかけていただく)と、カルビを別々に食べてたんですけど、それじゃあワンプレートの意味ないよなと、途中から混ぜ混ぜしていただくと…あれ、合うじゃん、美味いじゃん! となりました。 カルビのタレの甘さと、蕎麦つゆのしょっぱさがいい感じに絡み合って甘じょっぱいにバージョンアップ。とろろがちょうどよく間を取り持ちつつ、葉っぱで包んで食べるのもサンチュぽくてグッド! これはまさかのマリアージュだよ! こちら、夜の一品メニューも豊富かつ、そば焼酎などもしっかり揃えているので、今度は夜一杯やりにきたいですね。蕎麦飲みってやったことないもので。 町中華も、町の蕎麦屋も、こういう創意工夫ができているところが生き残っていくんだろうなと、そば湯をいただきながら思うのでした。メニューのイラストもいい感じだぜ! お蕎麦屋さんにも、よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

町の中華よ消えないで。

久しぶりにアイスコーヒーにガムシロップ入れてみたら、甘くて美味しかったです。でも洒落たコーヒー屋さんにはガムシロ置いてないっけ? さて。町中華という言葉がいつから登場したかわかりませんが、今やすっかり市民権を得ていて、ほんとにしっくりきますよね。新聞のコラムによると、北尾トロさんが名付けたとか、はたまた、広めたとか。お見事なネーミング。 ご多分に漏れず僕も町中華好き。しかし跡継ぎ問題やら、再開発やら、コロナやらで閉まってしまう店も多いですね。職場の近くの行きつけも、自宅の近くのお気に入りも、日本橋の名店も、この数年で相次いで閉まってしまいました。切なすぎるし、切実に困るぜよ。 星がつくような特別なお店ではなく、お店によっては清潔とも限らないのに、どうしてこんなに惹かれるのか。安さやボリュームもあるでしょうが、絶妙な落ち着きが最大の要因でしょうか。何の気兼ねもなく、ふらりと入れる場所。そしてどこの町にもあるし、ある種のコンビニというか、もはやインフラレベルか。 そして、何というか正直さみたいなのも、あるかもしれません。過度な営利性というか商売っ気は感じられず、過剰なサービスもなく、普通の、普段着の、存在感。大半が家族経営で庶民的。そのマジメさが安心感になっているというと、持ち上げすぎかな。ただただ普通、とことん普通、それがいいのか。厨房から聞こえるでかい中華鍋をカチャカチャ打ち鳴らす音がたまらんです。デリバリー? 何十年も前からやってるぜ! 決して絶滅することはないとしても、絶対的な数が減るのは寂しい限り。銭湯とかもそうか。本格中華じゃなくて町中華。サウナじゃなくて銭湯。そういう価値観て、確かにありますよね。懐古主義とはちょっと違う何か。とりあえず僕は、炒飯と餃子を頼みがちですが、ニンジンやグリーンピースの入ってる炒飯は苦手。 そんなこんなで、町中華にもよりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。 (写真はチェーン店。ないんですよ、生活圏に町中華が!)

コロナで人脈は失われたか?

我が家のベランダガーデニングに朝顔が加わって、また少し賑やかになりました。水やり忘れないようにしないとな。 さて。先日、社員旅行のようなものが3年ぶりに開催されました。面倒な部分もあるけれど、こういう団体行動も嫌いではない僕で、楽しむことができました。 リモートワークの推進で、出社の意義はあちこちで議論されてますよね。一般的に言われるように、コミュニケーションは希薄になりがちで、創発性が弱まるというのも実感としてあります。と同時に、子育て世代としては時間の融通が利かせやすくてメリットも大きい。 そんな中、僕が思うのは2つ。やっぱり雑談したいんですよねー、くだらないやつ。ゴシップとか観て「ちょっと、ガッキーと星野源結婚だって!」とか「大谷、やばいまた打った!」とか、ダラダラ喋りたい。そこに生産性はそりゃあないんでしょうけど、人間的な精神性はあるんじゃないかと思います。他愛のない話の中に宿る関係性ってあるさ。あと、摩擦やストレスもあるにはありますが、それも必要な気がしていて。無菌状態じゃ生きられないみたいな感じですかね。僕はこれを求めて出社している気がする。 そしてもうひとつ。新しい知り合いが、全然増えていないかもしれないと思ったのでした。新しい知り合い、新しい友達、新しい仕事相手ができていないような気がします。会社には新卒にせよ中途にせよ新しい仲間が増えているはずなのに、部署を超えた交流がなかったことで、知り合う機会がないのはもったいないなぁと思いました。コロナ禍における人脈という観点での損失って、少なくないのではないですかね。学生もそうかもな。 そういうのも、オンラインで賄えるものなのかもしれませんけれど、なかなかそう思えない僕はオフライン症候群なのか。ま、こういうのはどちらかだけが正解ってこともないので、バランスを取りながらうまくやるだけなんでしょうけれど。 まあとにかく、社員旅行がけっこう楽しかったという話なのでした。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

住みたい街1位の実態というか実感値

チーバくん大好きな千葉っ子な僕です。実家の4軒隣は梨園さ。 さて。そんな僕がひょんなことから横浜に住まうようになってもうすぐ丸4年。いよいよハマっ子感も出てきましたが(?)、横浜ってSUUMOの住みたい街ランキング1位なんだとか(関東でかな?)。へ〜。でも、横浜といってもかなり広いから、漠然としたイメージでしょうね。おそらく、みなとみらいあたりの。 それまで長く1位だった吉祥寺が順位を下げていて、「駅前はチェーン店ばかり」なんてコメントが出ていましたが、横浜駅徒歩10分圏内も輪をかけてチェーン店ばかりですけどね。 それまでは錦糸町にいましたが、引っ越してすぐ思ったのは錦糸町の方が100倍都会だったな、ということ。イメージは横浜のほうがかなりいいも思いますし、錦糸町が洗練されているわけでもないのですが、チェーン店ばかりというのもそうですし、横浜って地方なんだな〜と感じたことを覚えています。最先端がないんですよね。ブルーボトルが東京から遅れること数年して来る感じ。でもそれは悪い意味でもなくて、住みやすさにつながっている大事な要素。 4年が経って思うのは、やっぱり海まで自転車圏内というのは嬉しいことで、散歩するにしてもランニングするにしても子供を遊ばせるにも、海は強力なコンテンツ。海岸じゃなくても港で十分お釣りくる。そして、よくよく見ると小さな個人店も新旧いろいろ見えてきて、なかなか楽しい。 ただ、セレクト本屋さんがなかったり、路面の洋服屋さんも少なかったり、アートやカルチャーには弱いと言っていいですね。30分強で東京に出られちゃうので、そういうのは東京で楽しめばいいということなんでしょう。ニーズあると思うのですが。 そのほかには緑もわりと多いと思いますし、広域横浜でとらえると、のどかさもあります。動物園が3つもあったり大きな公園もあちこちにある。野毛や松原商店街のようなワイガヤスポットもいい感じ。 まとめると、東京ほどの競争にさらされていないからか、どこか全体としてゆったりしたムードがあるのが横浜という街だと思います。大都会の華やかさと、地方都市のローカルな性格が共存していて、そこに港町の大らかさがミックスされている。結果、独特の雰囲気が形成されているように思います。みなとみらい的なハレと、野毛的なケが、コンパクトにまとまっていることが最大の魅力でしょうね。 ま、僕は住

2022年も後半戦だぜ。

梅雨は明けるし、台風も来ているみたいだし、今日から下半期とはびっくりしちゃいますね。2023年は明日あたり、オリンピックも明後日には来るんじゃないか?(来ないけどさ) さて。当ブログものらりくらりと半年が経過しました。一応は、ほぼ毎日更新しながら180ちょっとポストしてきたわけですね。扱う内容に偏りもあるし、掘り下げも甘いしで、いろいろと反省も多いですが、とりあえず休まず続けたことだけは褒めてあげたいというか、褒められたいです。 ざーっと振り返ってみましたが、まあ、何を言っているかよくわからないものも多くて恥ずかしくもあれば、もっと多様なテーマを、より重厚に綴っていきたかったはずなのですが、良くも悪くもこれが等身大の自分だから仕方ないかと、諦めと開き直りの間にいます。もうちょっといろんなスポットを巡って取り上げたいのですが、なかなか環境がそれを許しませんね。その代わり、本や雑誌を読む頻度が増えたのは、良いことかなとは思います。 それにしてもダラダラ書いているだけではアクセスが増えなくて、インスタを毎日ポストしていた1〜2年前も思いましたが、このインターネット宇宙で、目を留めてもらうこと、出会ってもらうことの難しさよ! 15年前なら地道に更新していればある程度の流入があった気がしますが、今はてんでダメですね。もっとテーマを絞って尖った内容だったら、もしかしたらもう少し読んでもらえるのかもしれません。おそらく、あらゆる商売でSNSマーケティングやらが行われていると思いますが、ビジネスの機会にたどり着く前にフォロワーを獲得できなくて頭を抱えてしまいそうですね。ま、だからこそ、広告などのビジネスが存在するんでしょうけど。 改めて、このブログの存在意義は、自分の物書きとして&編集者としての筋トレであり、備忘録のノート代わりであり、願わくば、多少なりとも読んで頂く方に楽しんでもらえるものであれるよう、あらゆる面で精進しなくてはと思うのでした。よかったらたまに覗いてやってください。もう少し「暇と退屈とよりみちの倫理学」にしなくてはな。 ということで、後半戦もよろしくお願いします。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

出版界にもDXの波

半期に一度の棚卸仕事しました。倉庫にずらり並んだ本の山を見て、いろいろ気が引き締まります。 さて。物流クライシスでもあり、出版業界も当然コストカットは必須で、倉庫もいろいろと効率化が進んでいます。環境の問題も考えたら、課題は山積です。 そんな昨今ですが先日、集英社、講談社、小学館が、エムダムといえ雑誌編集制作の共通プラットフォームを利用するというニュースを見かけました。もともと集英社がプレイボーイ他男性誌で導入し、それを小学館CanCamが導入し、そしてさらに広がったとか。光文社や世界文化のなども導入するそう。 どうやら、デザイナーも編集も印刷所も、ひとつのプラットフォーム上で作業を行う仕組みっぽいので、データを送ったりなどのタイムラグがなくなる模様。ネットのCMSみたいなものなんですかね。 一昔前なら競合他社の、仕組みを使うなんてもってのほかだったと思いますがそんな時代じゃありません。「競争しなくてもいいところは協働したい」というコメントはとてもいいなと思いました。もう競争相手は雑誌じゃなくて、動画やらイベントやらライブコマースやら、たくさんいますもんね。 それぞれのコンテンツを持ち寄った新しい企画開発も進んでいるそうで、出版界もいろんな場面で合従連衡が進みそうです。しなやかに変化したものが生き残るってことだよなと、改めて思わされるニュースなのでした。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。