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スポーツと非認知能力

台風の影響で横浜市は緊急警報鳴りまくり。マクドナルド中でこだましてました。

さて。台風一過の本日は子供のラグビーへ。気持ちのいい秋空で、こんな中でスポーツできてうらやましいぞ(もう2年半も自分が球技していないとか信じられないな)。今、十分な自由時間があれば、習い事したいです。楽しく自分を向上できたらこんなに素晴らしいことはない。なんてことはさておき。

子供にいくつかのスポーツを体験させていて、ここにきて主体的に楽しんでくれるようになってホッとしていたところ、幼少時のスポーツによって非認知能力が高められるという話を聞きました。非認知能力とは、意欲や協調性、忍耐力、創造性、思いやりや勤勉性など、数値化しにくい能力のことを指すそうで、これが高いと将来の生活が豊かになりやすいという研究結果もあるのだとか。

より噛み砕くと、「粘り強く最後までやり遂げる遂行力」「自分の感情をコントロールする力」「計画を立ててそれを実行する力」とも表現できるようで、確かにこれは大切なことだと共感しますね。そして、スポーツがその発達に寄与するというのも、個人的には納得感があります。自分もスポーツでこれらの力を育ててもらった気がします。

約束事のもとでプレイし、決まった目標に向かって進むこと。うまくいくことばかりではもちろんないし、望んだ結果が出ないことも多い。でも、それを楽しみながら工夫しながら乗り越えていけるかどうか。リフティングが10回できたらとても嬉しかったし、逆立ちで7m歩けた達成感もものすごかった。県大会で負けた時は悔し涙も流したし、そういう悲喜こもごもが非認知能力とやらにつながっていたんだな。自分が勤勉で忍耐力や自制心があるなんて、おこがましくて言えないですけどね。

ラグビーのルールなかなか複雑ですが(1年生はタグラグビーです)、子供達は少しずつ規律を学び、挨拶ができるようになり、一生懸命ゴールを目指し、あれこれ考えながら仲間たちと協力し、大きな声を出し、勝てば喜び負ければ悔しがっています。まだまだ集中力はないし、全体感はよくわかっていないだろうし、技術も全然ですけれど、目に見えて成長していっていることは確か。

スポーツが全てではもちろんありませんが、「こういう楽しみがある」ということを知ってもらえたらいいなと思っています。非認知能力? まあ、あくまで副産物ですよね。スポーツをそういうツールにする気はあんまりない。元気な体になったら嬉しい。

子供の成長に目を細めつつ、自身の非認知能力もまだまだ磨かねばなと思うのでした。それにはやはりスポーツだ! がんばるぞー。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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