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静岡よりみち記。2022秋その3、クレマチスの丘を駆け回る

静岡ってとにかく東西に長いですよね~。 さて。今回の静岡旅の主目的はここ「クレマチスの丘」に来ることでした。だから三島。 前にポストしました が、こちらのヴァンジ彫刻美術館が開館20周年で、作品メンテナンスのためのクラウドファンディングのリターンでいただいた観覧チケットを握りしめて。 何回きても気持ちのいい場所で、十分なスペースと、豊かな自然、そこに溶け合いながらも異彩を放つ彫刻たち。小1長男は彫刻をひとつひとつ見ながら「面白い顔だね~」とか「やばいねー」(最近乱れがちな言葉遣い)とか「なんじゃこりゃー」とか期待した通りのリアクションで嬉しい限り。2歳児君はなかなか調子が出なかったけど後半は芝生を駆け巡り、ちょっと目を離したすきに池に足を踏み入れ(ダメです)と楽しんでもらえました。 カラダを動かして、目で見て、手で触れて、想像をしてみて。シンプルなのに案外日常の中でそれをするのが難しい今、貴重な場所だとしみじみ思います。情報は大事だけど、情報との距離感も大事ですよね。センス・オブ・ワンダー。マジでいいとこだ。 そして開館20周年展も、いろいろな作家の作品が楽しめて、いつもより少し華やかな雰囲気でした(あんまりゆっくり鑑賞できなかったけど)。年明け1月からは、いよいよクラファン資金を使っての長期休館と補修に入るとのこと。ショップやレストランも閉店ということで、どんなふうに再開されるのかはわかりませんが、その時を楽しみに待ちたいと思います。今までありがとう! もう残りわずかですが、お時間あればぜひお訪ねください。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

瀬戸芸に行けなかったよ2022

来週出張のしわ寄せで小忙しくしております。 さて。現在瀬戸内国際芸術祭2022の秋会期が開催中です。11/6までなのであと少し。僕は行けそうになくとても残念2022。ご存知の方も多いと思いますが、瀬戸内海の12の島を中心に行われる芸術祭で国内外の様々なアーティストの作品を楽しめます。写真の草間さんの南瓜のように、最大の特徴はロケーションを生かしたサイトスペシフィックであること。とにかく素晴らしいとしか言いようのない体験が、ここにはあります。 瀬戸内国際芸術祭 行きたいなぁと思っていたところに、ベネッセアートサイト直島の広報誌が届きました。季刊ペースで発行されているもので、ここに芸術祭の総合プロデューサーである福武さん(ベネッセ代表)のコメントが載っているのですが、とても良かったです。ウェブでも読めるのでよろしければ。 Benesse Art Site Naoshima PERIODICAL MAGAZINE 曰く、「経済は文化のしもべ」であると。つまりは文化的な豊かさなくして、繁栄はないと言い切っています。日本は経済成長を優先してきたけど文化的成長に乏しかった。その反動が今きていると。だから、この芸術祭はその流れに対抗するためにも必要だったと(かなり意訳)。 少なくとも、この芸術祭の島々には唯一無二の体験が待っていることは確かで、アートをきっかけにして人々が集い、過疎化した島に明かりが灯り始め、経済的にも発展を見せていることを考えると、福武さんの言葉にも説得力があります。今僕たちが求めているのは、あるいは人類に求められているのは、文化的交流なのかもしれません。 と、小難しいことを言いましたが、とにかく瀬戸内海の静かな海、おおらかな島の人々、のどかな集落の風景、それら全てが最高なんですよね。 芸術祭は間も無く幕を閉じますが、それ以外の時期もまた落ち着いていていいんですよね。来年の夏休みあたり、子供たち連れて遊びに行こうかな。直島で海水浴すると、冒頭の南瓜を海から眺めることができるんですよね。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

目を凝らせば見えるもの

電気の点検で1日停電でした。冷蔵庫カラにするの大変。 さて。資生堂ギャラリーで行われている「第八次椿会 ツバキカイ8 このあたらしい世界 2nd season」を観てきました。こちら昨年に続く2回目で、気鋭のアーティストたちによるグループ展。メンバーは固定で来年まで全3回行われるのが特徴です。 去年も良かったですが、今年も良かったな〜! 地下への階段を降りるとき、謎のロープ綱があることに気づきつつ、薄暗い展示室へ。暗いのでよく見えないため、必然的に目を凝らすことになります。ああ、これも現代社会へのメッセージなのかもしれません。キミハセカイヲヨクミテイルカ? 展示室内も引き続きロープが存在し、安直かもしれませんがこれが分断の象徴のようであり、見えない国境線を可視化しているようにも感じました。簡単に変更されてしまうし飛び越えられてしまうロープの心もとなさ。失ったら取り戻せない一線。 大きなディスプレーにはほぼ真っ暗な画面の中を小さな光が移動しています。最初はデジタルの信号かなと思いましたが、途中で車のヘッドライトだと気付きます。これも目を凝らす行為だ。動いていく光と留まり続ける光。その僅かな明滅とほんの少しの言葉から目が離せなくなる。 前回よりも作品同士のクロスオーバー感があって、また作品未満とされる私物も展示されていていろんな境界が曖昧でした。それは大きな変化のただ中にある今っぽいとも思うのでした。目を凝らすこと、思考を巡らせることで感じられることがある。12/18までの開催。 これは今から来年が楽しみです。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

センス・オブ・ワンダーの庭へ

日産マーチ販売終了ってなかなかびっくりしました。時代は変わるぜ。 さて。少し前にクラウドファンディングに参加したクレマチスの丘からリターンが届きました。20周年のコンセプトブックと、KIGIさんがデザインしたトートバッグと缶バッジとポストカード(かわいい)。あと、今やっている展覧会のチケット2枚。 コンセプトブックには、クレマチスの丘の四季折々の様子と植物の紹介から始まり、アート作品と、この場所がどんな風に誕生したのかについての解説。中核にあるジュリアーノ・ヴァンジの彫刻作品と、アーティストの哲学をまじえながら紹介されていました。 一種独特の彫刻作品たちは、想像を促します。この人物はいったい何を思うのだろう、どうしてこういう造形になったのだろう。そしてその想像はおそらく、移ろう季節とともに変化していくのでしょう。もちろんクレマチスの丘自体=自然そのものが日々発見にあふれている。 コンセプトブックの後半に「センス・オブ・ワンダーを育む」という章がありました。広大な庭園とアート作品に触れて感じることで、不思議の魅力を多くの人に、とりわけ子どもたちに感じてほしい。そんな願いが記されています。センスオブワンダー、感じられていたっけな?とふと我が身を振り返りますね。 落ち着かない世の中で、つい安定を望み刺激を避けてしまう日常もあります。それは心の平穏には必要なものだと思いますが、センスオブワンダーも同じくらい大事ですよね。 ということで、早くクレマチスの丘に行きたいという気持ちがムクムクと。少しずつ涼しくなり始めたのでちょうどいい季節ですね。計画を立てなくちゃ。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

「李禹煥」展という至福(延長戦)

水泳すると異様に体力消耗していることに気づく今日この頃。全身運動ってそういうことか。 さて。2日にわたって感想を書いた「李禹煥」展( 前編 、 後編 )ですが、そういえば会場には作品名以外のキャプションはありませんでした。なので基本的に自分の五感のみで対峙していたわけです。 で、現地から持ち帰った作品リストと鑑賞ガイド(写真)を読んだら、作家のプロフィルや代表的なシリーズについての解説があって、より理解が深まったので延長戦として追記しておくことにしました。 李禹煥さんは、釜山出身で、幼少時から文学に親しみ、来日後は哲学を学び、やがて美術表現に向かっていったそう。視覚芸術やジャクソン・ポロックなどの影響を受けながら「もの派」としてデビューし、初期の作品を発表していったようです。 僕も感じましたが、「関係」というのは大きなテーマというかモチーフになっていて、素材と素材、物の配置、絵画と余白、余白と空間など、仕掛けはミニマムながら、いろいろなものの関係を多次元的に浮かび上がらせています。「対話」という作品は、絵画の中で描かれた物体同士の関係性が絶妙で、それは展示室との関係さえも生み出していました。宇宙的! いちばん最後の展示室にあった「対話−ウォールペインティング」ではなんと壁に直接ペイントが施され、そのわずかな絵の具の塊が置かれることで壁の景色が変わり、展示室の空気が変わり、鑑賞者との対話が生まれるというものでした。マインドフルネスでもあるね。 ヨーロッパでも高く評価されるというのはこういうオリエンタルでミニマルな世界観なんでしょうね。直島のほかに、釜山、フランスのアルルにも、李禹煥の個人美術館があるそうですごいことだぜ。なお、ヴェルサイユ宮殿には、中庭にあった「関係項−アーチ」のオリジナル(はるかに大きい)が恒久展示されているようなので、いつか機会があったら観たいものです。 ということで、観れば観るほど、知れば知るほど、その深淵な世界が染み込んでくるのでした。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。 関連記事:「李禹煥」展という至福( 前編 )( 後編 )( 延長戦 )

「李禹煥」展という至福(後編)

国立新美術館ていい建築だなあと来るたび思います。 さて。 昨日に続いて国立新美術館の「李禹煥」展レビュー です。 展示の折り返し地点には野外作品がありました。砂利が敷き詰められ、中央に鉄板の大きなアーチと両サイドに岩石。遠くには六本木のビル群と、やたら近くを飛ぶ飛行機たちがいて、不思議な空間でした。これは触ってもいい作品で、石に触れると日の当たる方は温かい。鉄は全体温かい。あらためて素材の違いを体感して、いつも僕たちはそのイメージや思い込みだけでモノを見ていると再確認。触れてみることの大事さよ。 さてさて、後半は絵画作品です。 「点より」シリーズは、規則性のある絵画で、幾何学的でもありながら、筆の質感はアナログで、絶妙な筆致が波を生み、リズムを生み、速度になっていく感じ。 「線より」シリーズは、人に見え、雨に見え、滝に見えてくる作品。それは上から下へと流れていると思っていたけど、いや待てよこれは下から上へと昇っているとも言えるよなと思い当たる。そういえばところどころに作家の言葉が記されているのだけど、「行くもの来るものの両義性」というのがあったけど、まさにこのことかもしれない。ものごとには2つの側面があるね。 「風より」シリーズはより自由にランダムに。それは量子的でいて細胞のようで、生命を感じましたし、「対話」シリーズは絵画の中で関係性が問われていて、ものごとはそれそのものでは完結しないことを思わされました。関係の中にすべてがある。僕も、君も。 という感じで、いやはや、前後半通して魅せられっぱなしでした。最後まで観て、もう一度戻って、2回目を通してみて、ここまでシンプルなのにこんなに胸を捉えられていることに驚きました。 でも、直島の李禹煥美術館で初めて李さんの作品を見た時は「よくわかんねーーーー」って思っていましたけれど。知識が増えて成長したとも言えるし、見方が頭でっかちになったとも言えそうですね。でもでも、この展示はとてもよかったと思います。 美術館の前にももうひとつ野外展示が。これだけの量を一気に観られるのは貴重な体験ですね。会期は11/7まで。ぜひ! よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。 関連記事:「李禹煥」展という至福( 前編 )( 後編 )( 延長戦 )

「李禹煥」展という至福(前編)

神奈川県立図書館がリニューアルオープンしたので近日中に行ってきます! さて。国立新美術館の開館15周年(早いな)記念「李禹煥」展に行ってきました。めちゃくちゃ良くて、全力で推したいと思います。 展示は大きく前後半に分かれます。前半は「関係項」という作品群に代表される、大きな岩や、鉄板、角材などが絶妙な間合いで配置されたものたち。後半は「点より」「線より」などの大きな絵画作品シリーズです。まずは前半部分から。 岩にしろ鉄にしろ、無機質な物体が無造作に置かれているようなのに、何かそこに意味があるように思えてくる不思議。例えば3本の角材が、3つの置き方で存在します。ひとつは3本がそれぞれを支えるように。ひとつは3本バラバラに壁に立てかけられる。ひとつは3本が床に横たわっている。 ただそれだけなのに、不思議とさまざまなイメージが湧き起こります。角材が人のように見えてきて、支え合う姿、独立する姿、寝そべる姿にも見えてくるし、何かの役割を担い、やがてその役目を終えて朽ちていくようなストーリーにも思えてくる。どの作品も無造作な無機物なのにそんな余白が感じられるという神業。 はたまた一面瓦のような石板が敷き詰められた部屋はそれを踏み締める音が隣の部屋にも響き渡る。なんだか水琴窟のようにも思える。別の部屋は砂利道の中央に鏡の道が。その上を歩くと(歩いてOK)下を見ているはずが天井が映し出されている! その逆転現象の面白さよ。 あまりにも巧妙に余白の世界に連れていかれそうになり、物体のもつパワーと、関係によって生まれる意味性の強さを感じつつ、意味を求めすぎな自分を突き放すと、ただただ物質そのものの美しさ、配置がもたらす空間の機微のようなものも感じられてくるのでした。龍安寺の石庭か。 展示は撮影禁止なのもよかったかもしれません。写真に気を取られずにじっくり作品を観ることができました。 興奮冷めやらぬまま明日の後編へと続きます。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。 関連記事:「李禹煥」展という至福( 前編 )( 後編 )( 延長戦 )

ウェルビーイングを問うアート展へ

  7月に捕獲したカブトムシズがめでたく卵を産み一部は孵化していました! 孫ができた気分…とまでは言わないけど嬉しい。 さて。森美術館で開催中の「地球が回る音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」展を鑑賞してきました。僕の感想をひとことでいうと、ウェルビーイングとは狂気。です。なかなかいろいろ考えさせられます。 パンデミックにさらされたこの3年を通して「ウェルビーイング」という言葉を聴く機会も増えてきました。この展覧会ではウェルビーイング、すなわち「よく生きること」とはいかなることかを、国内外16名の作家の新旧140点ほどの作品で提示しています。 ある作家は、ひたすら集めた花粉によって黄色い大きなペインティングを作り上げたり、別の作家は北極点で24時間かけて地球と反対回りに動く様子を撮影したり、はたまた新聞紙を一部のキーワードをのぞいて塗りつぶして星空を生み出した作品もあれば、植物を細部まで再現した絵画作品もあり、毎日ひとつ作品を作り続けた軌跡もありました。こんな具合に、あらゆる出品作品がやりこみ系でまとめられていました。 僕にはそれはひとことで言うと「狂気」だと思ったのです。常人ではとてもできないレベルでひとつのことを突き詰め、結晶化された作品。はたしてこれはウェルビーイングなのだろうか。普通じゃない。異常といって差し支えない。作家たちはこの制作を通して、幸せを感じていたのだろうか。聞いてみないとわかりませんね。 でも、ここまでやりきれるもの、向き合う対象があるというのは、外から見ている分には羨ましい面もあるかもしれません。行為そのものを真似することはなくても、そこまで没頭できる、夢中になれる、という状態は理想的とも言えそうです。外部からの価値に意味などない。真価とは、自らの中にある。 タイトルは、オノ・ヨーコさんの作品からとられたもの。あらゆる価値観がゆらぎ、自身の内なる声に向き合わざるをえなくなった今、果たしてそれぞれにとってのウェルビーイングとはどんなことなのか。そんなことを問いかける展示でした。 ぼんやりしてちゃいけないけれど、よりみちしながらいきましょう。会期は11/6まで。今日も、いい1日を。

チームラボの破壊力

おっと、コンビニセルフレジでお酒は買えないのか! まあそりゃそうですよね。 さて。お台場にあります「チームラボ ボーダレス」に行ってきました。行って気づきましたけど、この8/31で閉館するそうです(都内移転予定とのこと→8/24追記。神谷町~虎ノ門に行くみたいですね)。ビーナスフォートも閉館して、大観覧車も8/31までで、この青海駅周辺一帯は25年頃に新たな1万人規模の多目的アリーナ(BLGのアルバルク東京のホームコートとか)&商業施設になるそうな。 それはまあさておいて、チームラボです。開業直後くらいにちとお邪魔して以来、本格的に遊ぶのは初めてでしたが、安定した破壊力でした。特に子供への刺さり具合は相変わらずで(豊洲にあったやつで実証済み)、館内は家族連れが大半と、カップルが客層の中心でした。 1Fはお得意のデジタルアートがシームレスに壁面を彩るスペースが中心で、春夏秋冬をモチーフにした和テイストの動く壁画。触れることで反応することに気づいた瞬間、子供たちは狂喜乱舞です。大人も楽しめる。 2Fは「運動の森」なる起伏あるスペースを中心に、こちらはさまざまなアトラクションが登場。色を変えながら光る卵型の球体が連なるゾーンもあれば、自分で描いた生き物が床や壁を彩ったり、デジタルアートの上の滑り台に、忍者修行のようなエリアも。あと宇宙でブラックホールを生み出すトランポリンもあったな。 ただ観るだけではなく、触れることで反応も楽しめ、さらには身体も積極的に動かすことでより有機的な体験になっていく仕掛け。これが「アート」なのかは議論の分かれるところではありますが、エンターテインメントとしての威力は一度体験するとわかるのではないでしょうか。3時間が秒で過ぎていき、子供たちはまだまだ遊びたさマックス(体力の限界は超えている)。 食事を気にしなければ(再入館不可)、1日フルで遊べるのでコスパも悪くないです(事前予約の入場時間指定制)。来年には都心部に移転するらしいので、また行きたいかも。 ただ、あらゆる意味で騒がしいので、大人がじっくり鑑賞するタイプでもないし、何か問題提起するタイプの作品でもないので、好みの分かれるところではありますよね。どの施設も、同じような体験になっているのも事実だと思いますし。 でも、他に同じものがあるわけではなく、たまに行って楽しむにはとてもいいなと思うの

ライアン・ガンダー われらの時代のサイン

この夏、ようやく1枚目のTシャツを買いました。 さて。東京オペラシティ・アートギャラリーで開催中の「ライアン・ガンダー われらの時代のサイン」展を見てきました。ひとことで言えば素晴らしかった! インパクトがあり、仕掛けとユーモアに満ちていて、想像を促す稀有な個展! イアン・ガンダー われらの時代のサイン|東京オペラシティ アートギャラリー 最初のスペースに足を踏み入れた瞬間にオモシロ!と肌が粟立ちました。広々した中にモノトーン基調の作品が点在するのですが、物憂げに座る女性の彫刻的な作品が目に飛び込み、ベンチのような立方体がずらりと並び、よく見ると壁に小さなセンサーがあって手をかざすと謎の数値がプリントアウトされた。 ひと目でそれがどんな作品かは分からないけど、会場マップには作品タイトルが記されていて、それはとても意味深なものばかり+少し情報があるので想像を膨らませやすくなってます。しかも、うっかり見過ごしてしまいそうな会場のすみっこにも作品が潜んでいるので、宝探しのような趣も。 段々と読み取れてくる(気がする)のは、「情報」のこと。与えられたヒントを手がかりに作品の意味を理解しようとするけど、情報によってイメージが固定化してしまうことは、ミスリードされてるのではないかと疑心暗鬼になる。今僕が巡らせている想像は、ちゃんと自分の頭で考えているのだろうか。誰かに操作されたものをなぞっているだけではないかと。本当は答えなんてないし、あったとしてもひとつなわけないのに、当てに行ってしまう態度を批判されているような気持ちになるよ。こういうの、おもしろ〜。 こちらの動きにセンサーで反応する作品や、時間と共に変化していく作品、私たちの行動が取り込まれる作品もあるので、体感性が強いのも、特筆すべきポイント。やっぱり自身が直接的に関わるのは楽しいし、それもまた必然的に作品と向き合うきっかけになる。 モノトーンなので派手さはないけど、だからこそ意味の余白が広がっていてとても心地よかったです。後から美術手帖の紹介記事を読んだら、この展覧会は「時間」をテーマにしていたとか。なるほど、確かにいろんな時間がモチーフになっていたし、ここで過ごした時間もまた全体として作品に取り込まれていたような気がするよ。 同時にライアンが選んだ収蔵品展も開催されていて、こちらもモノトーンでまとめられていてとてもク

アレック・ソス「Gathered Leaves」鑑賞。写真の外部性と内在性。

次男が京急好きすぎて、ハマっ子だなぁと思う今日この頃。 さて。 オズマガジン湘南特集 に触発されて、というわけではないですが、京急に乗って葉山にお出かけ。お目当は神奈川県立近代美術館の葉山館で開催されている「アレック・ソス Gathered Leaves」という展覧会。アメリカの写真家の個展です。どこかで告知のビジュアルを見て、興味を惹かれました。日本での個展は初だそう。 アレック・ソス Gathered Leaves | 神奈川県立近代美術館 ミネアポリス生まれで、今もそこを拠点にしながら、アメリカ国内外を旅して撮影をしているドキュメンタリーテイストの作家だそう。過去の作品群が時系列に沿って5つのセクションに分けて展示されていました。アメリカ郊外の寂寥感のあるランドスケープと、そこに暮らす人々のポートレートが中心。1枚1枚がすごく特別とは感じないけれど、集合として観るとアメリカが抱える孤独のようなものが透けて見える気が。 そこに写るのは、一般的に言って決して日の当たる場所でもなければ、注目を集めるような人でもない。でも、確かにそこに生きていて、彼ら彼女らの暮らしがある。名もなきモーテルにも、何の変哲もないカップルにも、それぞれに固有の物語があるということ。その姿に無性に引き込まれます。同じく、何者でもない自分がどこかで共感するのかな。そしてそれは、僕に旅をしているような感傷を与えてくれます。おそらく、僕がする旅行の中では出会えないだろうシーンたち。 展示の最後には最新シリーズの<A Pound of Pictures>が並びます。これは、作家が集めてている名もなき写真たちが、量り売りされていたことに由来するそう。そこでは写真の内容は求められておらず、ただただ質量のみが基準だったということ。果たして、誰でも日常的に写真が撮れる今、写真家の切り取るそれと、素人がおしゃべりするように写すそれの、違いとは何なのか。このシリーズが問いかけてきます。公共性ってことになるのかな。自分の内側にある感性や衝動を表現としてアウトプットしたものと、自分の外で起きたものごとを記録として記憶として取り込むためのものと。どちらに価値があるということではなく。 ところで、この日は次男を抱っこしながらの鑑賞だったので、写真一枚一枚「家が写っているね」「これは川だね、船が見えるね」「

そうだ、美術館か博物館行こう。

トレランシューズが加水分解し始めていて悲しいです。あんまり履いてないのに。 さて。ブルータスの最新号が「通いたくなるミュージアム」特集ということで、コンビニで見かけて購入しました。博物館から美術館まで、全国137施設が紹介されています。最近は雑誌がとにかく売れなくてどこも苦戦しているのですが、カタログ性の強いものは、ふとした時に購入する動機付けになるような気がしました。すぐ読み捨てる一過性のものより、ある程度の保存版が選ばれそうな気が。 中身は、トップバッターが北海道に2年前にオープンした、民族共生象徴空間ウポポイの中にあるアイヌ民族博物館と、そこから車で1時間半の平取町立二風谷アイヌ文化博物館。続いて、岡山と香川の現代アート施設。直島には新たなギャラリーが登場していますね。それから山梨と長野の考古館で縄文時代の文化を巡っています。土器とか土偶とか。続いて大学のミュージアムに、その他全国の知られざる様々な博物館。 遠方が多いのでパッと使うのは難しく、ちょっと地味かなーというのが感想ですが、夏休みに限らず、いつか行きたい場所を探すのに良さそうです。美術館こそよく行きますが、博物館にはなかなか足が向かないのが正直なところですが、この夏は子供を連れて、国立科学博物館でも行こうかな。大阪中之島美術館は、機会があればぜひ行きたい。あとは、テッパクか! ところで、いつの間にかブルータス編集長変わっていたんですね。そう言われてみるとちょっと雰囲気が変わったようなそうでもないような。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

いつも心にスヌーピーを。

好きなサンリオキャラは、ハンギョドンです。 さて。行ってきましたよスヌーピーミュージアム! 少し前に六本木からお引っ越しして、現在は南町田グランベリーパークにあります。スヌーピー尽くし! SNOOPY MUSEUM TOKYO 3階建ての建物は、2〜3階が展示室、1階がショップと受付、隣の建物にはカフェもあるという構成です。いろんなスヌーピーのイラスト、オリジナル作品、オブジェがあって、写真映えが強く意識されてると感じましたがどうでしょう。それに加えて、企画展。今は「しあわせは、みんなの笑顔 Laugh and Smile」(7/10まで)を開催中。その名の通り、思わずクスリ、ニヤリとしてしまうような作品がキュレーションされていました。 改めて読んでみると、シンプルながらウィットに富んでいて、古びない普遍性があるのですね。谷川俊太郎さん訳の見事さもあって、非常に含蓄があります。物事に対してフラットで自然体とでも言いますか。正義や道徳ではなく、ポピュリズムでもなく、自分らしさとかを飾るでもなく社会におもねるでもなく。そう言うの、なんと言うべきでしょうね。地に足ついてる。浮かれてないけど、落ち込んでもいなくて、日々を普通にやり過ごしてる。 その世界観を生きるスヌーピーも、ウッドストックも、チャーリー・ブラウンも、ルーシーも、他のみんなも、とても魅力的。それぞれ違うけど、みんなどこか僕らにも似ているような。日常のささいなエピソードを切り取るその眼力に感服しました。 そういえば小学校の頃はスヌーピーの筆箱使っていたっけ。あとスヌーピーがテニスするゲームウォッチも持ってたな。40年近く経つわけですが、その思い出は僕の中で色あせずに残っているのでした。お土産に図録とポストカードを購入。折に触れて彼らのイズムに触れたいと思います。 よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

世界を拡張するゲルハルト・リヒター

四畳半タイムマシンブルースがアニメになるんですねー。神話大系未読なので読みたい。 さて。東京国立近代美術館にて開催中の「ゲルハルト・リヒター展」に行ってきました。生誕90周年というドイツ出身の現代アートの巨匠。日本では16年ぶり、しかも東京では初めての個展だそうで、必見! ゲルハルト・リヒター展 名前は知っていながらも、作品などはあまりよくわかっていませんでしたが、とてもスタイリッシュな絵画&写真作品たちでした。ミニマムで、フラットだけど、とにかく強い。サイズが大きいのもあるけど、そこに込められたメタファーとしての密度と質量がすごかったです。 例えば代表作の《ビルケナウ》は、ホロコーストを題材にした4点の大型抽象画。画面の下には、本物のアウシュヴィッツの当時の写真を描き写しているそうで、その元ネタとなる写真も併せて展示されていました。どんなに目を凝らしても具体的な像は見えてこないのに、重苦しいタッチと、キャンバスを引っ掻いたような跡と、鈍い赤色はやはり、そこで流された血をイメージせざるを得なくて、それは目の前のものよりも情報という実態のないものを見ているのかもと思いました。 併せて、大きな鏡の作品も展示されているのですが、自分が収容所に立っているように錯覚するほどの迫力でした。実際に収容所の中に入ったことがあるわけでもないので、これもイメージがそうさせている。 かと思えば、「カラー・チャート」シリーズは、正方形の様々な色のパネルが配置された一見ポップな作品。5×5枚を最小ユニットとして、それを36セット並べて一枚の作品となっていました。色の並びは全てランダムだそうで、目に鮮やか。この世界のあらゆる色を凝縮しているようで、でも現代では解像度の粗いデジタル・ドットに見えないこともない。ここも鏡の作品があるので、空間の物理的な広がりも感じられます。ビルケナウの次に置いて対比させてるのがニクイ。 写真の上に絵の具をたっぷり乗せた「オイル・オン・フォト」も目から鱗。写真と絵画は常に比較されるものだと思ってましたが、両方取り入れてしまうこんな合わせ技があったとは! 意味があるとは思えない大胆な絵の具によって、一枚の写真が変容してしまうことに驚かされました。単純なのに奥深い。展示作品全体通して、こういうギミックが効いていると思いました。 昨日、抽象についてポストした流れ での抽象