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ライアン・ガンダー われらの時代のサイン

この夏、ようやく1枚目のTシャツを買いました。

さて。東京オペラシティ・アートギャラリーで開催中の「ライアン・ガンダー われらの時代のサイン」展を見てきました。ひとことで言えば素晴らしかった! インパクトがあり、仕掛けとユーモアに満ちていて、想像を促す稀有な個展!
イアン・ガンダー われらの時代のサイン|東京オペラシティ アートギャラリー

最初のスペースに足を踏み入れた瞬間にオモシロ!と肌が粟立ちました。広々した中にモノトーン基調の作品が点在するのですが、物憂げに座る女性の彫刻的な作品が目に飛び込み、ベンチのような立方体がずらりと並び、よく見ると壁に小さなセンサーがあって手をかざすと謎の数値がプリントアウトされた。

ひと目でそれがどんな作品かは分からないけど、会場マップには作品タイトルが記されていて、それはとても意味深なものばかり+少し情報があるので想像を膨らませやすくなってます。しかも、うっかり見過ごしてしまいそうな会場のすみっこにも作品が潜んでいるので、宝探しのような趣も。

段々と読み取れてくる(気がする)のは、「情報」のこと。与えられたヒントを手がかりに作品の意味を理解しようとするけど、情報によってイメージが固定化してしまうことは、ミスリードされてるのではないかと疑心暗鬼になる。今僕が巡らせている想像は、ちゃんと自分の頭で考えているのだろうか。誰かに操作されたものをなぞっているだけではないかと。本当は答えなんてないし、あったとしてもひとつなわけないのに、当てに行ってしまう態度を批判されているような気持ちになるよ。こういうの、おもしろ〜。

こちらの動きにセンサーで反応する作品や、時間と共に変化していく作品、私たちの行動が取り込まれる作品もあるので、体感性が強いのも、特筆すべきポイント。やっぱり自身が直接的に関わるのは楽しいし、それもまた必然的に作品と向き合うきっかけになる。

モノトーンなので派手さはないけど、だからこそ意味の余白が広がっていてとても心地よかったです。後から美術手帖の紹介記事を読んだら、この展覧会は「時間」をテーマにしていたとか。なるほど、確かにいろんな時間がモチーフになっていたし、ここで過ごした時間もまた全体として作品に取り込まれていたような気がするよ。

同時にライアンが選んだ収蔵品展も開催されていて、こちらもモノトーンでまとめられていてとてもクールでした。是非お見逃しなく! ということで、大満足して図録とTシャツ買って会場を後にしたのでした。会期は9/19まで。必見!

よりみちしながら、いきましょう。そういえば群馬のSHIROIYA HOTELにも彼の作品が展示されていました。リンクするなぁ。今日も、いい1日を。









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