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「李禹煥」展という至福(前編)

神奈川県立図書館がリニューアルオープンしたので近日中に行ってきます!

さて。国立新美術館の開館15周年(早いな)記念「李禹煥」展に行ってきました。めちゃくちゃ良くて、全力で推したいと思います。

展示は大きく前後半に分かれます。前半は「関係項」という作品群に代表される、大きな岩や、鉄板、角材などが絶妙な間合いで配置されたものたち。後半は「点より」「線より」などの大きな絵画作品シリーズです。まずは前半部分から。

岩にしろ鉄にしろ、無機質な物体が無造作に置かれているようなのに、何かそこに意味があるように思えてくる不思議。例えば3本の角材が、3つの置き方で存在します。ひとつは3本がそれぞれを支えるように。ひとつは3本バラバラに壁に立てかけられる。ひとつは3本が床に横たわっている。

ただそれだけなのに、不思議とさまざまなイメージが湧き起こります。角材が人のように見えてきて、支え合う姿、独立する姿、寝そべる姿にも見えてくるし、何かの役割を担い、やがてその役目を終えて朽ちていくようなストーリーにも思えてくる。どの作品も無造作な無機物なのにそんな余白が感じられるという神業。

はたまた一面瓦のような石板が敷き詰められた部屋はそれを踏み締める音が隣の部屋にも響き渡る。なんだか水琴窟のようにも思える。別の部屋は砂利道の中央に鏡の道が。その上を歩くと(歩いてOK)下を見ているはずが天井が映し出されている! その逆転現象の面白さよ。

あまりにも巧妙に余白の世界に連れていかれそうになり、物体のもつパワーと、関係によって生まれる意味性の強さを感じつつ、意味を求めすぎな自分を突き放すと、ただただ物質そのものの美しさ、配置がもたらす空間の機微のようなものも感じられてくるのでした。龍安寺の石庭か。

展示は撮影禁止なのもよかったかもしれません。写真に気を取られずにじっくり作品を観ることができました。

興奮冷めやらぬまま明日の後編へと続きます。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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