初詣でおみくじ大吉引いた僕です。やったぜ! さて。映画『ケイコ 目を澄ませて』(2022年公開)鑑賞。生まれつき両耳が聞こえないケイコはプロボクサーとしてデビューし勝利をおさめる。次の試合に向けて準備を始めるものの、その心にはボクシングを続けることへの迷いが生じていた。日々の仕事、家族との距離、ジムの仲間との関係。迷いながらも日々は流れて…。 批評家筋から激賞されているというこちら、とても良さそう!と思い立って観に行ってまいりました。なるほど、玄人好みで万人受けするタイプではないと思いますが、とても良質な映画でした。聾唖、女性、ボクシングというキーワードはあるものの、ケイコはスーパーヒーローではありません。傷つき、葛藤し、迷いもがきながら、進む。その姿を安易に語ることなく炙り出していきます。 冒頭、ジムの音が重なり合っていく演出が秀逸で、縄跳びの音、ミットを叩く音、マシンの音、それらが一つずつ重なりあって協奏曲のようになっていきます。さらには街のノイズ、電車の通過音などと合わさって、街全体のざわめきになっていく。 もちろん、ケイコはそれらが届かない世界を生きているのですが、それを露骨には意識させないところがニクイですね。手話も当然出てくるけど、安易にケイコの内面は語られません。だから、想像する。彼女は何を考えているのか。なぜボクシングをしているのか。答えもないし、ヒントも特になかったと思う。だから、無限に想像できてしまう。というか想像するしかない。 途中、ジムのコーチたちが、煮え切らないケイコに苛立ちを見せるシーンが。真面目にトレーニングしていたケイコが知らぬ間に期待していたコーチたちだけど、そこには温度差があった。ケイコ自身にも答えはないディスコミュニケーション。誰も間違ってないのにすれ違っちゃうことってあるんだ。 視力を失いつつある会長と、閉鎖されてしまうジム、少しずつ居場所をなくしていく雑多でノイズだらけの下町の風景。それはセンチメンタルではあるけれど、聴力を持たないケイコは戦えているのだから、何が「ある」で何が「ない」のかの線引きがぼんやりしてくるんですよね。 そんな中で、ケイコの弟の何気ないやさしさと、その恋人(?)のささやかな歩み寄りが心地よくて、3人でボクシングしてダンスするシーンの清々しさよ。それからケイコの対戦相手との偶然のすれ違いもまた示唆に富む
「よりみち」をテーマに綴ります。お出かけのような物理的なもの、心持ちのような精神的なもの、たしなみのような文化的なもの、全部ひっくるめての「よりみち」を推奨していきます。よりみちしながら、いきましょう。(ブログタイトルは『暇と退屈の倫理学』より借用。基本方針は、2022年1月1日のポストをご覧ください)