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感想_『ドライブ・マイ・カー』(2回目)

 

アカデミー賞は『コーダ あいのうた』が獲得しましたね〜! 手をパタパタする拍手、胸熱!

そして、我らが『ドライブ・マイ・カー』も下馬評通り、国際長編映画賞を受賞しました! おめでとうございます!! ということで記念して2度目の鑑賞です(初見のレビューはこちら)。(あと原作のレビューはこちら)。『コーダ』もこれも、手話が重要なファクターになってますね。前者では家族の絆であり主人公を縛る足かせとして。後者では分断を乗り越える可能性のメタファーとして。

2度目でもやはりその美しい映画としての佇まいに惹かれました。物静かで、多くを言葉で語るわけではないのに、全体としては雄弁に語ります。今回印象に残ったのは「僕は正しく傷つくことができなかった」という家福のセリフ。妻の秘密を知った彼は、それを受け止め切ることができずに逃げてしまった。その悔いが、2年経った今も深い傷を負わせている。

一方で、ドライバーのみさきもまた誰にも言えない罪と秘密を抱えていた。北海道、上十二滝町で二人はそれぞれの罪を交換し、ようやく自分を赦すことができます。嘘も間違いもなくて、それは起こるべくして起きたことであり、どんな過去も後ろへと流れ去っていくものであること。北海道に向かう途中。車の後ろへと流れていった景色は、このシーンへと繋がっていたように思いました。あらゆるものは、僕たちの中を通り過ぎていく。

それでも、道は続いていく。僕たちは人生という車を走らせ、生きていくしかないのです。いつかすべてが過ぎ去ってしまうとしても、その一つ一つには何かしらの意味があるということ。それはその時には気づかないかもしれないけれど、あるいは、まったく意味がなかったとしても、僕たちを形成する欠かせない何かではあるのでしょう。ラスト、海を越え、車を受け継いだみさきの表情は、だからこそ人生は美しくて面白いと、語っていたように思います。思えば遠くに来たもんだ。

いや本当にすごい快挙ですね。濱口監督の過去の作品も、ぜひ拝見したいと思います。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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