わかりあえなさを抱えた僕たちが向かうべき場所。運転は嫌いじゃない僕です。
さて。映画『ドライブ・マイ・カー』鑑賞。舞台演出家の家福は、突然妻を亡くした。その日、彼女は話したいことがあるといっていたのに。それから2年後、演劇祭に招かれた家福は、寡黙な運転手のみさきや舞台関係者たちとの交流を通して、過去の傷と秘密に向き合っていく。村上春樹原作、カンヌ映画祭脚本賞受賞。
めちゃくちゃよかったです。3時間という長尺にひるみましたが、抑制の効いた、静かだけど美しい物語世界にたっぷりと浸らせてもらいました。真に豊かな時間だったな。味わいとしては『ノマドランド』に通じるものが。
多言語の舞台作品という劇中劇がまず、コミュニケーションについて考えさせます。外国語という壁が、身振り手振りを伴う芝居の中でゆるやかに溶けていく。家福が韓国人夫婦と心を通わせ、寡黙なみさきが褒められて照れる様子は、僕たちは言葉を介さなくてもわかりあえる可能性を示唆します。
一方で家福と妻の関係は、とても幸福で満たされたものであったはずなのに、それでも絶対的に分かり合えないことが横たわることを明示します。村上さんは「理解は誤解の総体」と以前書いていますが、人と人は本質的には分かり合えないものとして突き放します。
でも、その両面を超えて、物語は進む。他人と分かり合えないとしたら、僕たちはどうしたらいいのか? 答えは、自分自身の中に深く降りていくこと。目の前の人や、起きたできごとが自分にとってどんな意味を持っているのか、それをどう受け止めるのか、目を逸らさずに問い続けることが、唯一の答えであり、それはとりもなおさず生きることそのものなのだ。
僕たちは命ある限り、失い続け、そして損ない続けます。出会った人は必ず通り過ぎて行きます。でも、そこには確かに意味があり、そして道はそこから先へも続いていきます。たびたび映される運転シーン、そして無数の道路は、人生という旅路の直喩でしょう。真っ直ぐに続く道、複雑に交差する道、夜の明かりに照らされた道、雨に打たれる道、真っ暗なトンネルとその先に広がる雪景色の道。
その道がどこに続いているかは誰にもわかりません。それは、他人のことを分かり得ないことと似ているかもしれませんね。分断の時代と言われる今、誰かの気持ちがわからないことを諦めるのではなく、そこに壁を打ち立てるのではなく、みずからを掘り下げていくことで分断は乗り越えていけるのだと、静かに、でも力強く、勇気づけてくれる物語でした。
ところで、僕は原作を刊行時に読んでいるのですが、すっかり内容を忘れていました。台詞回しや設定に、村上さんらしさを感じましたが、短いお話だったはずなので、きっと多くを創作・脚色しているはず。もう一度読み直してみたいと思います。あと、印象的だったゴミ処理場と公園にはぜひ行きたいぞ。
ついつい、長くなってしまいました。すなわち語るに足る映画だったということ(語り足りない)。見るたびきっと捉え方が変わるタイプの1本でしょう。上映回数が限られますが、ぜひ劇場で。
よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。
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