スキップしてメイン コンテンツに移動

感想_駆け出しクリエイターのための時間術

トリキバーガーってあるんですね。鳥貴族さんのチキンバーガー専門店。

さて。三浦崇典『駆け出しクリエイターのための時間術』(2023年刊)読了。著者は天狼院書店の経営者であり、雑誌「READING LIFE」の編集長であり、「秘めフォト」フォトグラファーであり、著書多数。マルチタスクなパラレルキャリアの中でハイパーに仕事し続けるその原動力とも言える「時間術」をまとめた一冊。

とにかく上に書いた以上の肩書きと仕事量をどうやってこなしているのか不思議だったわけですが、本書を読むことでその秘訣が明らかにされます。とにかく徹底的に時間の無駄を排除し、時間当たりの生産性を上げ、それをフル回転でドライブさせていく。そんなことできるのか?って感じですが、とても理性的にロジカルに組み立てられているメソッドなので違和感は全くありませんでした。

例えば、「予定のブロック化」という方法。とにかくこのタスクはここでこなす、という予定を抑えてしまいます。そしてその中でやりきる。とてもシンプルだけど、僕自身で言えばここができていない。なんとなく今日の午前中にここまで進めたいなとは思っているものの、その間に他のメールを返信しちゃったり、飛び込んできたLINEを見てしまったり。それが生産性を落としてしまっている。分かっているけど管理できていないんですね。著者はそこを意識してコントロールしている。

あるいは仕事には想定外がつきものだと思いますが、著者はここの対策も施しており、木曜日は丸々この想定外を処理するための「調整枠」にしているのだとか。この枠があることで、不測の事態に慌てることはないし、ここでカタをつけると決めていれば既存の仕事にも差し支えなく、もちろんこの枠の中でイレギュラーを潰していく。うーん、ためになるぜ。

という方法論が余すことなく綴られているわけですが、一番大事なことは、「なんとなくやり過ごしてしまうもの」を徹底的に可視化して、その上で対策を立てておく。ということだと思います。これができるか、できないかが、仕事のできる・できないを分けていると言っても過言ではないでしょう。僕を含む多くの人がおそらく、ことが起きてから考え始めている。この時点で出遅れてるってことですね。リスク管理。

実はここにも秘密があって、著者は一番の敵はストレスだと言います。予定外のことに煩わされたり、無駄な時間を過ごしてしまう自己嫌悪だったり。そういうストレスは百害あって一利なし。この、誰にでもついてまわる捉えにくい敵をあぶり出した上で、対抗手段を持っておくことで、ストレスを極力低減させておくという考え方なんですね。これは、ぜひとも取り入れたいところ。著者は猛烈に仕事してるので、寝ずにやっているのかと思いきや、睡眠を削るのもパフォーマンスに如実に影響するので絶対NGとしています。

ストレスなんてない方がいいに決まっているから、ストレス解消さえも予定の中に取り込むことを推奨しています。そのための遊びも昼寝も美味しいご飯も、生産性を上げ仕事をよりよくするためなのだから、堂々とすべきであると。反論の余地ないです。再現できるかどうかは本人次第。

もちろん、著者自身も長年の試行錯誤の末にたどり着いた境地であり、一朝一夕で真似できるものではないと思います。でも思考方法としてはとても有効だと思うので、まずはできることから取り入れて、少しずつ体に染み込ませていくのが良さそう。大事なのはマインドセットなんですよね。予測不可能性はどんな天才にも偉人にも排除できないわけで、それに伴うストレスだてゼロにはならない。でもそれが分かっているんだったら、先回りしておけばいいじゃんという話です。

そういえば、育児ってまるで制御不能なモンスターですが、制御不能なモンスターを相手にしていると諦めがついてからはだいぶ心安らかになりましたわ。怒ったところで諭したところで幼児は言うことなんて聞いてくれないんだから、肩に力入れても眉間にしわ寄せても仕方ないじゃんてね。

ままならいのが人生であり、思い通りにいかないのが仕事(そしてイライラしまくるのが育児)。その動かしようのない事実をスタート地点にするだけで、時間術、そしてひいては幸福術も変わるのでしょう。それに気づかせてくれた学びある一冊でした。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

コメント

このブログの人気の投稿

抽象絵画スペクタクル

書きたいことはいろいろあるのですが、書く時間がうまく取れなくてすみません。 でも。これはどうしても書き残したい! アーティゾン美術館で開催中の「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」鑑賞しました。 軽い気持ちで観に行ったのですが、とてもよかったです。何がよかったかというと、最後の「現代の作家たち」のセクションで、文字通り現代作家の抽象画が並んでいるのですがとても好みで最高だったのです。特に感動したのが鍵岡リグレ アンヌさんの作品↓ 「Reflection」というシリーズの2点でしたが、流る水を思わせる色使い、世界地図のようにも見えた奥行きというか広がりの視覚的インパクトもさることながら、これジオラマのように隆起している立体的な作品なのです。解説によるとグラフィートという古典的な壁画の技法に布のコラージュが加わっているそう。初めて、心の底から、この作品が欲しいって思いました。いくらするかわからないけど何とかして手に入れたい。作品集もあればほしい(検索したところ見つからなかった)。 そのほかにも、リタ・アッカーマン、津上みゆき、高畠依子、横澤美由紀といった面々の作品もインパクト抜群でした。めちゃくちゃワクワクした。 展示全体でいうと、抽象画前夜のセザンヌやゴーガンに始まり、マティスにピカソにジョルジュ・ブラックのキュビスム、そしてカンディンスキーやパウル・クレーといった始祖の作品が連なります。やがてその中心はアメリカに移り、ジャクソン・ポロックやクーニング夫妻、マーク・ロスコなども並ぶオールスター的なラインナップで見応えありました。 あらためて抽象画、パッと見からは何を描いているのかわかりません。印象派たちが自らの感性のまま風景をとらえたのち、作家たちは自らの内面に目を向けそれをアウトプットしたのが抽象画だとするなら、それはすなわち心象風景であり前後の文脈や作家の言葉を参照せずに、わかるはずはない。 だから、わかろうとしなくてもいいんですよね。僕なんかはもう見た感じが好きか嫌いかでしかないし、それが何を描いているのか想像したところで正解なんてもはやないわけで。そしてそれこそが醍醐味だなと再確認しました。強い原色、荒ぶる筆致、あるいは薄暗い世界、不思議な幾何学模様。なんだか答えのない今の時代にぴったりとも言えるかもし

感想_<叱る依存>がとまらない

アンガーマネージメントにも興味がある今日この頃。 さて。村中直人『<叱る依存>がとまらない』読了。部下を、子供を、つい叱ってしまう。その日常的な行動には叱る側の依存性があった。臨床心理士の著者が「叱る」のメカニズムを解き明かし、叱らない社会をやさしく説いた1冊。 7歳と2歳の子供を持つ生活は、日々のあちこちに「叱る」が潜んでいます。前を向いて歩きなさいとか、ごはんこぼすなとか、いたずらするなとか、早く支度しなさいとか…。そんなのはどこでもそうだと思うのですが、「程度」がわからないのですよね。どのくらいがしつけや教育の範囲で、どこからそれ以上に逸脱してしまうのか。そんな自分の悩みの出口を求めてこの本を手に取りました。 なお、自分は対子供で考えていましたが、この本は対部下や後輩というのも大いに含まれています。 本書の大きなポイントは叱るという行為は、叱る側の欲求を満たすものであって、叱られる側を変える効果は非常に弱いということ。「本当はこんなこと言いたくないけど仕方ないから」と思いながら叱っているつもりが、実は「叱りたくて叱っているだけ」ということです。独り相撲かよ! もちろん、相手に変化を促したいという気持ちは間違いなくあるのですが、叱るというのは手法としてまったく有効じゃないと言うことです。でも、叱ることで相手が言うことを聞いたように見えたり、萎縮したりするから勘違いが生まれてしまい、その実本質的には何も変わっていなかったというオチ。こうして「何度言ってもわからないならこうだ!」的な負のスパイラルが生まれ叱る依存はエスカレートしていくと。 実験データや専門的知識をもとに語られているのでこのロジックはとても腑に落ちますし、確かに怒ってみせたり、きつく言い聞かせたところで、相手が何にも変わらないというのは実感もあります。子供もそうですし、対大人でもそう。自分が叱られる立場で考えても「この説教早く終わらないかな」とか思ってたりしますよね笑(いや、自分に非があればもちろん認めますよ…)。 叱るの持つ効果は、例えば道路に飛び出す子供を止めるような無条件の危機介入・抑止力のみのようです。とにかく何が何でも止めなきゃいけないときだけ。なので、相手に本質的な改善や理解を要求するならば、叱る以外の方法を模索した方が良い。 子育て8年目に突入した今、これはなんとなく思うところなのでした

小学2年生は恥じらう生き物。〜長男7歳6ヶ月、次男2歳11ヶ月〜

↑この現象、日暈というのですね(またはハロ)。 さて。小2長男の授業参観に行ってきました。教室につくと見知った子どもたちがじゃれてきてかわいいです。見知らない子どもたちも「誰のお父さん?」といった具合に寄ってきてかわいいです。 見たのは国語の授業。詩を班ごとに朗読するというものでしたが、各班それぞれ詩の読み方を独自に考えて発表するというもの。ソロをパート分けしたり、みんなで一緒に読んだり、声を大きくしたり身振り手振りをつけたり、いろんな表現をしてみんな頑張っていました。 詩をただ読むでもなく、意味を読み解くだけでもなく、こうやって身体的表現の領域まで拡張するのはとてもクリエイティブでいいな、って思いました。前にコラボ授業(算数×体育みたいな)のニュースを見ましたが、国語×音楽や体育というのもありだよね、と。 発表の後は、どんな工夫を発見したか、聞いていた人たちが挙手して発表。こういう演って終わりじゃないスタイルも自分の子供時代にはない(あれあったかな?記憶なし)、今っぽい進化だなーと思いました。 さて。ひとつ思ったのは2年生にもなると照れとか恥じらいが出るんだな、ということ。緊張は1年生でもあったけど、去年はもっとみんな勢いだけでガンガンいっていたような気がする。あと、正解を当てに行っているなというところも。 真っ当な成長なんでしょうけど、なんか寂しさも感じたりして、公共の場でわちゃわちゃしてるとヤレヤレとか思ったりするのに身勝手な大人の気持ちなのでした。 なんにしても愚息くんも学校生活を無事に送れているようでひと安心。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。 ■次男備忘録 ここにきてワガママがひどいというか、イヤイヤのアップグレードというか…。お風呂入らない、歯磨きしない、寝ない、のないない3兄弟に参っております。 一方で言葉は達者になり、抱っこせがみが減り、遊び方も複雑化したりお絵描きも形を成し始めたりという成長も。