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感想_雨上がり、君が映す空はきっと美しい

 

トランクルーム借りたいような気がする今日この頃。徒歩圏内であるといいんだけどな。

さて。汐見夏衛『雨上がり、君が映す空はきっと美しい』(2021年刊)読了。くせっ毛は言うことをきかないし、ジメジメして滅入るし、雨なんて大嫌い。そんな風に思っていたコンプレックスの塊の高校1年生、美雨。でも、憧れの先輩、映人と言葉を交わしたのは、そんな雨の日だった。

『君はきっとまだ知らない』の汐見さんの単行本、これもなかなか良かったです。等身大の高校生と言っていいですかね、こんな風に自分を肯定できず、いろんなことを諦めたり、逃げ出してしまったり、そういう経験がある人には特に共感できるような、そして背中を押してくれるのではないかという本でした。

登場人物はごく少数で、決して大きな世界ではありません。それゆえに主人公の心情がストレートに伝わります。自分を卑下して、先輩への恋心をひた隠しにし、でもどこかで奇跡を願ってしまう自分が愚かで醜いとすら追い込んでしまう美雨。対照的に、おおらかでどこまでも明るく自由で太陽のような映人。それには理由があるわけですが、2人のコントラストはわかりやすくて、自然に好感が持てるのです。

映画がキーアイテムにもなっているので、映像的な描写も美しく、渡り廊下の横の水たまりを見つめる描写は胸を打つものがありました。雨樋からの水滴がコツコツと地面を打ち続け、やがて土を掘り、水たまりとなり波紋を映す様を、自らの恋心となぞらえる。その裏では、毒親(最後にフォロー入るけどなかなかひどい)からの呪いの言葉によって少しずつ闇が深くなっていったことも示唆しつつ。全体、雨と水にまつわる単語をちりばめて、物語世界全体を包んでいるのも綺麗ですね。書影イラストもいい感じ。

なんだか、映画『虹の女神』を思い出したな。何気ない日常のきらめきを切り取るような物語。この小説も、いい青春映画になりそうで。あと、隅っこにいた自分が対極にいる人と触れて価値観が開かれていくという意味では、『ウォールフラワー』も頭をよぎったのでした。映画つながり。

できすぎている部分もありますが、それよりも瑞々しく優しい世界に癒されました。青春好きさんはよろしければ。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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