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感想_計算する生命

 

恵方巻き、食べたことがないと思う僕です。豆はしぶしぶ食べます。

さて。森田真生『計算する生命』(2021年刊)読了。計算という行為はいかにして人間の営みに組み込まれていったのか。その起源から、数学者と哲学者たちの研究と議論を紐解き、そして人工知能開発に至るまでを論考した一冊。計算とは、この世のことわりを明らかにするものであり、そして生命を拡張さえもするものとなるのか。

森田真生 『計算する生命』 | 新潮社


最近の個人的数学ブームと、同じ森田さんの『数学の贈り物』が良かったこともあり、手に取った一冊。これは結構数学用語もたくさんで、難しいところもありました。でも、面白かったです。


計算にしても数学にしても、僕には苦手意識があり、とっつきづらさがあります。でもその行為の元になっているのは、一筋縄ではいかない自然界のルールを突き止めることであり、一人一人がバラバラに認知している世界の共通言語を見つける行為なんだと、教えられました。それはきっと世界の秘密を覗くようなことで、だからこそ多くの数学者たちを惹きつけているんだなと想像できます。ある種のアート。僕にはそれを真似ることはできないけれど、でも、この世界にある見えない法則を知りたいという欲求には共感できます。そういうのを探す生き物なんじゃないですかね、人間て。


数字という概念に疑問を持つこともなかったけれど、改めて向き合うととても不思議なものなんですよね。実体がないし、十進法はとても便利なシステムだけどこの規則も人間が作り上げた人工的なもの。だけど、万人が理解して用いることができる。計算も、一定の約束事の元で運用が可能になる仕組みなんですよね。考えたこともなかったけど、そういう風に捉えるととても理知的で、クールな事だと思えてきました。


僕は言語に興味がありますが、それは目に見えない、手に触れる事もできない、心の中を誰かと共有するツールだから。人の心を覗きたい。誰かの想いを知りたい。そんな欲求が出発点になっているように思います。数字もまた同じで、顕在化できないものを仮想的に代替し、それによって共通理解を生み出すことができるもの。まさか国語と算数が親戚だったとは思いませんでした。対極にあるって無意識に思っていたのに。


ありとあらゆる計算=アルゴリズムが支配しつつある現代、その合理性と利便性は言うまでもありませんし、一方で枠組みに縛られ追いかけられるような息苦しさも同時に感じています。計算も言語も、それはあくまでツールであり代替物であるのでしょう。本当の出発点はやっぱり我々の心の内にある。僕たちは計算する生命である。と同時に、その計算を司る生命でもある。それぞれがそれぞれに作用しながら進化することで、未来は拡張していく。決して計算だけでもなく、不確かでバラバラの心だけでもなく。


そんな風に思想が広がっていく一冊でした。なぜ哲学者がこんなに数学を研究しているのか、わかったような気がします。僕も、もっと勉強したくなりました。著者の前作『数学する身体』も読まないと。話変わって、基本、帯は外して写真を撮っていますが、これは帯も含めて書影デザインが完成しているなと思うので、そのままにしました。文字の転ばせ方がクールですね。


よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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