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感想_数学の贈り物


 12/18。おはようございます。1000円のペンを2本買いました。

さて、今日は本のレビュー。題してよりみちライブラリ。森田真生『数学の贈り物』(ミシマ社)読了。数学をテーマにした研究者である著者が、出版社であるミシマ社のウェブサイト「みんなのミシマガジン」で2015年より5年にわたって連載していたものが書籍化されたエッセイです。

タイトルには数学とあるし、著者は数学が専門のようですが、内容にいわゆる数学的な要素はほとんどない。けど、中身の説明が難しい本。現在presentが贈り物presentである、という内容です。伝わりませんね。

でも、この、簡単に言葉に置き換えられない感じがとても良かったです。今は時短の時代なので、わかりやすくて、要約も容易にできるもののほうが好まれやすいですが、こういう思索が自然に巡っていくような本を読んだのは久しぶりだったこともあり、とても清々しかったです。

取り止めもない日々の移り変わりを独特の目線でとらえ、豊富な知識や引用とともに、この世界の豊かさや美しさを思い出させてくれました。世の中、情報があふれ、さまざまなものが数値化されています。データは集まれば集まるほど効率化され、合理性が幅を利かせていきます。

でも、世界はそんなに簡単には割り切れない。今も昔も。そしてその割り切れなさにこそ人生のおかしみや喜びの根源があるということを、極めて静かに、そしてやさしい眼差しでつづってくれています。

作中に紹介される「不一不二」という言葉や、「かぞえる」の語源など、新しい知識も、この本で見かけなければ出会わなかっただろう類のものなので、嬉しかったです。偶然の贈り物。そもそもの出会いはTwitterでこの本のタイトルを見かけたとき、文系の僕はちょっと興味を惹かれて手を伸ばしたのでした。

直感に従うといいことありますね。今日も、いい1日を。

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