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感想_レディ・バード

ということで、昨日の『バービー』のグレタ・ガーウィグつながりで『レディ・バード』(2018年公開)鑑賞。面白かった。

主演のシアーシャ・ローナンのイメージは自分の中ではかわいらしい少女って感じなのですが、それを裏切るオフビート系の作品でした。サクラメントの女子高生クリスティンは、自らを「レディ・バード」と名乗り(家族にもそう呼ばせる)、日々に退屈し、毒も吐けば衝動的な問題行動も起こし、モヤモヤした「今いるここ」から抜け出したいと感じているガール。うん、わかるぞそういう感じ。

この手の青春イニシエーション系作品は定期的にある気がして、ちょっと前だと『ジュノ』でもう少し前だと『ゴーストワールド』(ちょうどリバイバルしている)とかでしょうか。”普通”とはちょっと違う自分を抱えて、居場所がないはみ出しものたちの自己実現。

レディ・バードはでもその系譜とはちょっと違うのか(ポップではない。でもカワイイ)。母との愛情にすれ違い(いきなり飛び降りる衝撃!)、恋愛にはわりと積極的。でもいい感じの男の子はゲイだし、次の彼は素敵だけど一番にはなれなくて。

なんか上手くいかない。何がダメなのかわからない。自分か、環境か、若さか。恵まれていないわけではないけれど、幸福だとは思えない。母のことは好きだけど、愛されていると実感できない。この街を出れば何かが変わるんじゃないかって思う、第一期青春の日々のもうすぐ終わりのところ。

いろいろ出来事はあるけれど、全体として決定的な起伏はありません。テンションはややダウナー。それがリアルであり、小さなエピソードの積み重ねの中に、彼女の葛藤や変化が映し出されていく心地よさというのでしょうか。観客はレディ・バードの観察者になるけど、詳細な説明はないので想像で話の余白を継ぎ足していく。で、共感したり、しなかったり。でも最後、なんとなくほろ苦さを感じて終わるんじゃないかな。この町を出たけど、あんなに望んでいたはずの未来で待っていたのもなんだか同じようなモヤモヤであり、多分どこまでいってもつきまとうだろう孤独だったという第二期青春の始まり。的な終わり方。

町をよく観察している、それはすなわち愛情だ、というシスターの言葉が素敵でした。初めて助手席から運転席に乗り換えて知った景色。それを母親と重ねて知る感情。レディ・バードはきっと人よりも色々なものが見えすぎるのだろう。誰かの些細な心持ちとか、そういうものが。だから、新しい名前で自分を作り変える必要があったし、でも町を出たらその名前は必要なくなった。彼女はもう何処にでも飛んでいける鳥になったのだから。

おそらく、カトリックの価値観が下敷きにある話のような気がしましたが(ポスタービジュアルを見ても)、それがわからないのが悔しかったかな(全然関係なかったらすみません)。序盤の鳥淑女のイラストは最高だったし、『バービー』でも思ったけどカメラ正対アングルで人物が横切ってくカットが好きそうだなと。

監督の主演作『フランシス・ハ』にも通じるような”私が私になる”ための物語。あるいは自分で自分を大切にするための儀式。シアーシャつながりで『ブルックリン』も観よう、そして『若草物語』も。

よりみちしながら、いきましょう。こういう映画の数珠つなぎ鑑賞が好きです。今日も、いい1日を。

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