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感想_横道世之介

『永遠と横道世之介』が発売されていますね・・・!

ということで。吉田修一『横道世之介』(2009年刊)読了。大学進学を機に長崎から上京してきた男、横道世之介。名前も面白いが、本人も面白い愛すべきボンクラ男。流れるままにサンバサークルに入り、超お嬢様とのお付き合いが始まり、周囲の人を微妙に巻き込みながら過ぎていく、愛すべき青春の日々。

この小説を原作にした映画が大大大好きで、いつか読みたいと思っていた原作をついに手に取りました。あらためて、映画はとても原作に忠実だったんだなぁと確認し、どうやっても世之介は高良健吾君になり、祥子ちゃんは吉高由里子になってしまい、倉持は池松壮亮君になってしまいますよね。なんて愛おしい世界なんだ。

映画にはなかった(よね?確信ないが)、世之介のおばあちゃんの死が描かれていて、それはそこまで重要なシークエンスではないと思うけど(だから映画ではカットされたんだよねきっと)、原作にしかない部分なので読めてよかった気持ちになりました。

あらためて、世之介の持つ類まれなる善良さのようなものに触れて心が温まります。そしてその明るさに。闇雲な希望とか、現実味のない理想とかではなく、いつだってそこにいそうなのに、実際にはなかなか手に入らないこと。でもきっと僕たちはちょっとなら世之介に近づけるはず。全部が世之介になるのは難しいけれど、少しずつ世之介を自分の中に取り込むこと、彼の居場所を持つことはできるんだろうなぁと思いました。

それって何なんだろうと思うと、打算のない素直さかなーと。情報と同調圧力が渦巻く中で、正解かどうかなんて気にせずに感情の赴くままに行動する世之介への憧れの気持ち。僕自身はどうしても空気を読んで計算して日々立ち振る舞ってしまうから、その対極にありそうな世之介に惹かれてしまうんだよね。祥子も同じかなー。似たもの同士。

ということで、小説版も素晴らしくよかったので、映画とセットでマスターピース入りが決定しました。ラストお母さんからの手紙に「世之介に出会えたことが自分にとって一番の幸せ」という言葉がありますが、僕も同じ気持ちです。一番の幸せはさすがに言い過ぎだけど、出会えて幸せなことは間違いない。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。


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