スキップしてメイン コンテンツに移動

草間トリックス健在!

NYCマラソン、無事にエントリーしました。11月に向けてがんばるぞ(ランと英会話)。

さて。カーサブルータスの最新号が「草間彌生、最新案内」特集だったので即買いです。10年ぶりのルイ・ヴィトンとのコラボレーションが世界中で話題ということでの今ですね。お店に行ってみましたがもうだいぶ売れちゃってる模様。でも、3月には第2弾がドロップするそうなので要チェック。

で、それと同時に原宿にポップアップストアが出ていたこととか、都内各所でさまざまなインスタレーションなどがあったこととか、全然知らなかったー!! 知ってたら絶対見に行ったのにな。増上寺とか芝公園とか行幸通りとか。。。情報感度が落ちていることを実感せざるを得ない。

ま、それはそれとして。僕の草間さんの原体験は森美術館での個展「クサマトリックス」です。六本木ヒルズ開業間もない頃で、物見遊山的に行きましたし、アートらしいアートを見たこともなかったので、完全になんだこりゃ〜とエンターテインメントとして楽しみました。

今もそれはあんまり変わっていなくて、水玉とカボチャのアイコニックさとフォトジェニックさにただただ食いついているだけのようにも思います。一言でいえば、カワイイ。その後、いくつかの個展など彼女の作品を見て、知識も増えたけれどもなお、唯一無二のポップさと毒々しさに魅せられている。

あえていうなら草間さんの魅力はオブセッション=強迫観念かなぁと思います。執拗なまでの増殖性と有機性、そして「愛はとこしえ」という普遍的なメッセージ。病的だけど、それゆえに心を捉えるといいますか。みたいなこれまでの足跡をまとめた一冊でした。あらためて国内各地のパブリックアートも観に行きたいし、今香港でやっている回顧展も行きたい(GW・・・か!?)。

ちなみに長男次男とも「すご」「こわ」と言いながら興味津々でした。越後妻有で見たやつだよって教えたら納得してて、直島と十和田に行ってみたいそうです(中に入れるカボチャが刺さったました)。あと松本を走るバスと香港の地下鉄に乗りたいそうで。笑

まだまだ僕たちを魅了してくれることを願いつつ。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

コメント

このブログの人気の投稿

抽象絵画スペクタクル

書きたいことはいろいろあるのですが、書く時間がうまく取れなくてすみません。 でも。これはどうしても書き残したい! アーティゾン美術館で開催中の「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」鑑賞しました。 軽い気持ちで観に行ったのですが、とてもよかったです。何がよかったかというと、最後の「現代の作家たち」のセクションで、文字通り現代作家の抽象画が並んでいるのですがとても好みで最高だったのです。特に感動したのが鍵岡リグレ アンヌさんの作品↓ 「Reflection」というシリーズの2点でしたが、流る水を思わせる色使い、世界地図のようにも見えた奥行きというか広がりの視覚的インパクトもさることながら、これジオラマのように隆起している立体的な作品なのです。解説によるとグラフィートという古典的な壁画の技法に布のコラージュが加わっているそう。初めて、心の底から、この作品が欲しいって思いました。いくらするかわからないけど何とかして手に入れたい。作品集もあればほしい(検索したところ見つからなかった)。 そのほかにも、リタ・アッカーマン、津上みゆき、高畠依子、横澤美由紀といった面々の作品もインパクト抜群でした。めちゃくちゃワクワクした。 展示全体でいうと、抽象画前夜のセザンヌやゴーガンに始まり、マティスにピカソにジョルジュ・ブラックのキュビスム、そしてカンディンスキーやパウル・クレーといった始祖の作品が連なります。やがてその中心はアメリカに移り、ジャクソン・ポロックやクーニング夫妻、マーク・ロスコなども並ぶオールスター的なラインナップで見応えありました。 あらためて抽象画、パッと見からは何を描いているのかわかりません。印象派たちが自らの感性のまま風景をとらえたのち、作家たちは自らの内面に目を向けそれをアウトプットしたのが抽象画だとするなら、それはすなわち心象風景であり前後の文脈や作家の言葉を参照せずに、わかるはずはない。 だから、わかろうとしなくてもいいんですよね。僕なんかはもう見た感じが好きか嫌いかでしかないし、それが何を描いているのか想像したところで正解なんてもはやないわけで。そしてそれこそが醍醐味だなと再確認しました。強い原色、荒ぶる筆致、あるいは薄暗い世界、不思議な幾何学模様。なんだか答えのない今の時代にぴったりとも言えるかもし

感想_<叱る依存>がとまらない

アンガーマネージメントにも興味がある今日この頃。 さて。村中直人『<叱る依存>がとまらない』読了。部下を、子供を、つい叱ってしまう。その日常的な行動には叱る側の依存性があった。臨床心理士の著者が「叱る」のメカニズムを解き明かし、叱らない社会をやさしく説いた1冊。 7歳と2歳の子供を持つ生活は、日々のあちこちに「叱る」が潜んでいます。前を向いて歩きなさいとか、ごはんこぼすなとか、いたずらするなとか、早く支度しなさいとか…。そんなのはどこでもそうだと思うのですが、「程度」がわからないのですよね。どのくらいがしつけや教育の範囲で、どこからそれ以上に逸脱してしまうのか。そんな自分の悩みの出口を求めてこの本を手に取りました。 なお、自分は対子供で考えていましたが、この本は対部下や後輩というのも大いに含まれています。 本書の大きなポイントは叱るという行為は、叱る側の欲求を満たすものであって、叱られる側を変える効果は非常に弱いということ。「本当はこんなこと言いたくないけど仕方ないから」と思いながら叱っているつもりが、実は「叱りたくて叱っているだけ」ということです。独り相撲かよ! もちろん、相手に変化を促したいという気持ちは間違いなくあるのですが、叱るというのは手法としてまったく有効じゃないと言うことです。でも、叱ることで相手が言うことを聞いたように見えたり、萎縮したりするから勘違いが生まれてしまい、その実本質的には何も変わっていなかったというオチ。こうして「何度言ってもわからないならこうだ!」的な負のスパイラルが生まれ叱る依存はエスカレートしていくと。 実験データや専門的知識をもとに語られているのでこのロジックはとても腑に落ちますし、確かに怒ってみせたり、きつく言い聞かせたところで、相手が何にも変わらないというのは実感もあります。子供もそうですし、対大人でもそう。自分が叱られる立場で考えても「この説教早く終わらないかな」とか思ってたりしますよね笑(いや、自分に非があればもちろん認めますよ…)。 叱るの持つ効果は、例えば道路に飛び出す子供を止めるような無条件の危機介入・抑止力のみのようです。とにかく何が何でも止めなきゃいけないときだけ。なので、相手に本質的な改善や理解を要求するならば、叱る以外の方法を模索した方が良い。 子育て8年目に突入した今、これはなんとなく思うところなのでした

小学2年生は恥じらう生き物。〜長男7歳6ヶ月、次男2歳11ヶ月〜

↑この現象、日暈というのですね(またはハロ)。 さて。小2長男の授業参観に行ってきました。教室につくと見知った子どもたちがじゃれてきてかわいいです。見知らない子どもたちも「誰のお父さん?」といった具合に寄ってきてかわいいです。 見たのは国語の授業。詩を班ごとに朗読するというものでしたが、各班それぞれ詩の読み方を独自に考えて発表するというもの。ソロをパート分けしたり、みんなで一緒に読んだり、声を大きくしたり身振り手振りをつけたり、いろんな表現をしてみんな頑張っていました。 詩をただ読むでもなく、意味を読み解くだけでもなく、こうやって身体的表現の領域まで拡張するのはとてもクリエイティブでいいな、って思いました。前にコラボ授業(算数×体育みたいな)のニュースを見ましたが、国語×音楽や体育というのもありだよね、と。 発表の後は、どんな工夫を発見したか、聞いていた人たちが挙手して発表。こういう演って終わりじゃないスタイルも自分の子供時代にはない(あれあったかな?記憶なし)、今っぽい進化だなーと思いました。 さて。ひとつ思ったのは2年生にもなると照れとか恥じらいが出るんだな、ということ。緊張は1年生でもあったけど、去年はもっとみんな勢いだけでガンガンいっていたような気がする。あと、正解を当てに行っているなというところも。 真っ当な成長なんでしょうけど、なんか寂しさも感じたりして、公共の場でわちゃわちゃしてるとヤレヤレとか思ったりするのに身勝手な大人の気持ちなのでした。 なんにしても愚息くんも学校生活を無事に送れているようでひと安心。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。 ■次男備忘録 ここにきてワガママがひどいというか、イヤイヤのアップグレードというか…。お風呂入らない、歯磨きしない、寝ない、のないない3兄弟に参っております。 一方で言葉は達者になり、抱っこせがみが減り、遊び方も複雑化したりお絵描きも形を成し始めたりという成長も。