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感想_すずめの戸締まり

やっぱりスラムダンクの映画観たい気がしてきたけど今日この頃です。

さて。『すずめの戸締まり』(2022年公開)鑑賞。不思議な青年草太と出会った鈴芽は、巨大な怪物と遭遇。その名をミミズという怪物を閉じ込めるため草太は日本中を旅していたが、鈴芽の行動により草太は小さな足の1本取れた椅子の姿にされてしまう。草太を救うため旅に出た鈴芽は、自らの命をかけて過去の記憶と向き合うのだった。

ようやく観れました。そして、泣かされました。失われた者たちへのレクイエムであり、遺された者たちへの讃美歌でした。明確に東日本大震災が下敷きにあるので、震災をどう受け止めているかで感想は大きく変わる気がします。

冒頭から一つ一つのシーンの意味を感じさせるのが新海イズム(シンカイズムと読む)で、玄関の鍵をかけ、自転車の鍵を開けるだけでもこの行為がお話のキーポイントであることが伝わります。鈴芽が暮らす海を見下ろす高台の家もまた過去とのコントラストですね。同じ海が、凶器にも希望にもなる。

終盤、「ここってこんなにキレイだったんだな〜」という何気ないセリフに戸惑う鈴芽のリアクションがありましたが、同じ景色でも持っている記憶によって風景が異なることを示唆していたように思います。こういう何気ない描写にも役割があって、無駄のない緻密さがすごいんですよね。

序盤からいきなりトップスピードな展開は今時のスタンダードで倍速視聴なんてさせないぜ!という心意気も見え隠れ。ミミズの造形や、普段は大地の下に蠢く魂のかたまりっぽい成り立ちはとても日本的でよかったですし、お話の始まりが宮崎なのは、高千穂の天岩戸伝説を借りてますよね。てか鈴芽の苗字が岩戸だしな。『君の名は』もそうでしたがこういう日本的美意識をくすぐるのも新海さんお上手。右大臣左大臣も絶妙なネーミング。

合間にもいろんなドアが登場。コンビニの自動ドア、電車の扉、極め付けはオープンカーの屋根。閉まり切らないルーフからは雨が降り注ぐのも、開いたドアは閉じなければならないというメタファーかな。だとしたらあれは悲しみの雨。我々はあまりにも多くのドアを無責任に開けっぱなしにしているのかもしれません。個人としても、社会としても。

お話のクライマックスは、鈴芽が過去のトラウマと向き合うシークエンス。要石となった草太を救い出す時の、草太の生への切望には打たれずにいられません。あれは、前触れなく命を奪われたすべての被災者が抱きそして叶わなかった願いであり、その声を代弁していると想うと涙が。

続く、幼い鈴芽が母を探して彷徨う姿もたまりません。「家がなくなっちゃって鈴芽の場所がわからなくて探してると思う」も涙なしでは聞けないセリフ(マザーの芦田愛菜再来。あっちはつぐみの鳥つながり)。もし魂の声を聞けたとしたら、3.11直後はこの叫びで埋め尽くされていたはずと想うとさっき以上の涙が。

廃墟になぜ後ろ戸が開くのか、最後に草太が口にします。人の思いが重石になっているがそれがなくなると抑えが効かなくなると。こういう場所を増やしてしまったのは人間の責任でありこれらの負の遺産にどう落とし前をつけるのかは僕たち世代が向き合わなくてはならない問題であることが突きつけられました。

個人の喪失と震災という大きすぎるしかし忘れられつつもある傷跡をてこにして、大きな社会課題も炙り出した秀作だったというのが全体の感想です。ふう。重い。でも、だからこそ必要。これを描いた新海監督の勇気に敬意を表したいと思います。

いくつか疑問はあって、鈴芽にだけ後ろ戸やミミズが見えたのはなぜか(かつて後ろ戸に迷い込んだから?)、結局大臣ふたりは何がしたかったのかということと(やっぱり気まぐれか?)、東京の後ろ戸がなぜ開いてしまったのか(これは大臣が要石抜いたからか。でもそれはなぜ?)、じゃああっちの大臣はなぜあのタイミングで出てきた? あと、節々で現れる蝶かな。母親かなと思われるけどどうでしょう。あたりはレビュー漁れば答えがあるかな。

ところで本作品は父親という存在がほとんど不在でしたね。父性の不在が何を意味するのかすぐには思い当たらなかったので、ちょっと考えてみたいと思います。

最後に鈴芽を助けてくれた人たちの元をお礼参りするエンディング良かったですね。九州は熊本地震、四国は大雨災害(かつお遍路文化が鈴芽を受け入れる説得力)、神戸と東京は震災。そう考えるとこの物語が他人事という人はいないか。

当たり前の「行ってきます」や「ただいま」が明日も繰り返される保証がないことを僕らは頭ではわかっていながらどうしても忘れてしまう。最後の言葉がドア越しに交わされたそれだった人もたくさんいるんだ。それはどうしようもなく悲しいけれど、それを引き受けて生きなければならない。

それそれの物語の中で、僕たちが開かなくてはならないのは後ろ戸ではなく、目の前にあるドアなのだ。その先に待っているのは常世ではなく、現世。後悔や過去ではなく、未来と希望。失ったもの、損なってしまったものと向き合い祈りを込めてそのドアを閉じ、明日のための扉を開こう。そういうメッセージを最終的には受け取ったのでした。

ちょっと興奮冷めやらず、誰かと語り合いたい気分です。レビューもガンガン読みたいと思わされるのが新海イズム。本作はテーマ性強くて重いですけどね! それゆえ万人受けじゃないのかな。

なんにしても語るに足る映画だと思いました。あっちこっちのぐちゃぐちゃレビューですみません。もう一回観たいな。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。



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