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感想_SPY×FAMILY(1~3巻)


チェーンソーマン、アニメ化ってすごいな。どんな感じになるんだろ。


さて。こちらもアニメ化で大ヒット中の『SPY×FAMILY』を3巻まで読了。凄腕のスパイ「黄昏」は戦争を未然に防ぐため、敵国の首脳に近づくミッションをアサインされる。そのため、疑似家族を作り、とある学園に侵入しようとするのだが、娘はエスパー、妻はアサシンだった。。秘密だらけのこの家族は、世界の平和を守れるのか!?


タイトルがすべてで、スパイと家族というまったく違うテーマを掛け合わせてしまった設定が素晴らしいですね! そしてそこに学園ものと言う要素までぶちこまれて、スパイもエスパーもアサシンも学園も家族も、単独でも成り立つテーマを全部ミックスして、極上エンタメに。上手いな~! まだまだ物語は序盤なので、この先どうなるのか。次の話で登場するイヌの役割もめちゃくちゃ気になります。


余談ですが、「エレガンスが伝統を作る」ってセリフありましたが、これ絶対キングスマンの「manners makerh man」へのオマージュですよね。ある意味のスパイファミリー。


ところで、こちらはジャンププラス発かと思いますが、とっても少年マンガっぽいな~とは思いました。怪獣8号とか、鬼滅には、感じなかったんですけど、なんでしょうね。作品のテイストがライトだから? コメディ感が強いからかな。鬼滅のギャグには大人の妙味を感じたよ。


何はともあれ、マンガってほんとすごいカルチャーだ。どれもこれも面白くて沼というか広大すぎる海、いや、宇宙か。僕が読んだ数なんてほんの一握りだからな。次は『葬送のフリーレン』を読んでみようかなと思います。


全然考察になってなくてすみません。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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