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オズマガジン2022年10月号「みんなの日本橋・八重洲・京橋」

上野動物園の双子のパンダに会いたいです。和歌山のアドベンチャーワールドでもいいのだけど。

さて。オズマガジン最新号「みんなの日本橋・八重洲・京橋」特集が発売になりました。大きな再開発と、小さな名店が混じり合って、そもそもは江戸から続く伝統もあるわけで、なかなかユニークになってきたこのエリア。散歩のしがいがありますよ。

誌面では、新スポット続々の「兜町〜茅場町」、老舗の若旦那が集う「八重洲〜日本橋〜京橋」、新旧の名店がひしめく「人形町〜浜町」、コレド室町にニュースがたくさんの「三越前〜室町」、インディペンデントな空気が魅力の「小伝馬町〜馬喰町」と、5つのエリアにわけてご案内。ナビゲーターはご当地にゆかりある人々で、それぞれの主観で街の魅力を教えてくれます。地元目線がいい感じ。

最後に特集全エリアにまたがるグルメガイドで締めているのですが、こちらも新旧あわせて食のレベルの高さは特筆すべきものがあって、焼き鳥の伊勢廣さんから、クラフトビールにスパイスカレーと旬のお店も集まって、どれもこれもハズレなしの名店揃いといって差し支えないかと。気取り過ぎていないのは江戸人情のなせる技でしょうか。

あらためて街は生き物で、常に変化し続けているものだなぁと、教えられた気がします。常に新陳代謝を続けて、なのに連綿と受け継がれているその街らしさというのも確かにあって。そういうものを見過ごさずに暮らしていきたいなと、ふと思ったのでした。

さて、どこにごはん食べに行こうかな。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。


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