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「写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」展が良かったです。

腕の皮がむけました。第一次日焼け終了。


さて。アーティゾン美術館の「写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」展を鑑賞しました。セザンヌなどの絵画作品を起点にして、2人の写真家の作品へと展開する本展、とても面白かったです。美術館のコレクションと現代作家をコラボさせるジャム・セッション企画の第3弾。

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴崎敏雄×鈴木理策 写真と絵画ーセザンヌより | アーティゾン美術館



柴田さんのお名前は初めて知りましたが、とても興味深いお写真。なんでもなさそうな風景の幾何学的な部分を切り取り、グラフィックのように見せてしまう神業に驚嘆しました。こんな風に、目に見える世界を写し出せるのかと! 鈴木理策さんは個展も拝見していたので、相変わらずの美しさに感服し、確かにどちらの作家も絵画的とも言えるんだなぁと思いました。


柴田さんを評した「非決定的な瞬間」という言葉がとても腑に落ちて、ドラマチックな何かではない、今もそこにただあるだろう風景で、見つけさえすれば誰でもその写真は撮れるかもしれないのに、誰も見つけられない場所なんですよね。そんな非決定的なはずなのに、唯一無二の視点だという。「こんな目を持ちたい」って惹きつけられる作品。一方の理策さんはカメラを操って絵画を生み出してしまうような、その表現力にため息が出ます。りんご一つをこんなに美しく撮れますかねしかし!



一枚の写真だけでは見落とすかもしれない、その裏に潜む世界はメッセージ、技法を、並列にすることで可視化した今回の試み、とても面白く拝見しました。もう一つ、写真は複数枚並べて一つの哲学を表現出来るメディアでもあるんだよなと再確認しました。大きな一枚で勝負するのもいいですが、小品を連打することで構築される世界も確かにありますね。



さて、それからもうひと企画ありまして、「Transformation 越境から生まれるアート」も拝見。ルノワール、藤島武二、パウル・クレー、ザオ・ウーキーの4人にフォーカスして、国を超え、時代を超える音で作家たちがその性質を変化・進化させていった様をあぶり出していました。僕はポスタービジュアルにも作品が使用されているザオ・ウーキーに引き込まれました。

Transformation 越境から生まれるアート|アーティゾン美術館


そんなこんなで、カメラ片手に街に繰り出したくなる展示でした。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。




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