葛根湯様様の僕です。無事に体調回復しました。
さて。村上春樹『騎士団長殺し』の感想の後編です。
改めて、村上作品の主人公は一貫して孤独(ある意味での)であり、徹底したスタイルを持ち、実年齢とは別に少年のままですよね。それが独自のファンタジーとなり、"子供みたいな純粋性"を残した(あるいはそうでありたいと願う)人たちを刺激して、「これは自分の物語だ」と思わせているのかもしれないと思いました。だからこそ世界中で愛されているし、あまり共感できないという人もいる。村上チルドレンやハルキストと呼ばれる人は、この純粋性に憧れを持つ人なんだと思います。子供っぽいと言っても間違いじゃないのかも(そして僕もその一人)。
ところで副題に「イデア」と「メタファー」とありますが、これってなんでしょうね。日本語訳すれば、理念と暗喩。前者は物事のあるべき姿で、言い換えれば善なるもの。後者はそこに隠された意味で、真実や示唆というところでしょうか。「どんな物事にもいい面と悪い面がある」は本書にも出てきましたし、村上さんの定説だと思いますが、何事にもイデアとメタファーがあると言っても差し支えないかもしれません。あるべき姿と、その裏に潜む意味と。この辺りは本書の大きなメッセージのひとつのようにも感じられます。
小説としても前半は「イデア」が仕掛けとして次々立ち上がり、後半は「メタファー」となって回収へと向かっていく。私たちの目の前に現れることは全部何かしらの意思を持ったイデアということができるし、そして巻き起こるあまねく事象は何らかの示唆を含んだメタファーでもある。無駄なことなんておそらく一つもなくて、それらを拾い集めながら僕たちはどこに向かうのかを日々決定しているのでしょう。好むと好まざるとに関わらず、いい面と悪い面を混在させながら。
それに自覚的であることが、僕たちの日々をよりよくするために必要なものであり、他人に対して寛容である唯一の方法のようにも感じます。時間がすべてを押し流し、強大なものが力を行使し、ちっぽけな個人ではただ飲み込まれてしまうような毎日だからこそ。今日、何を見て、何を思うのか。自分にとってそれらが何の意味をなすのか。無自覚であればそれはただ流れ去る空白でしかなく、でも目を凝らして一つ一つを吟味すれば、強大な何かに対抗しうる強い力になるんでしょう。
振り返ってみて良かったことは、誰をも悪者にしなかったことです。免色さんは、悪なるものかもしれないと身構えていましたが、そうではなかった。ある意味では、強固なシステムのようでもあり、秋川まりえにとっては嫌悪の対象にもなりましたが、結果として私を救ったのは免色さんでもあり、彼もまた失われた何かとともに環に囚われ続ける被害者でもあるとも言え、安易な仮想敵ではありませんでした。
秋川まりえの胸が膨らみ始めたことも、なんだか福音のように思えましたし。相変わらず(?)、夢の中で妊娠させちゃう村上的処女懐胎も健在。今回、絵描きが主人公であり重要なモチーフですが、そっくりそのまま小説と置き換えられそうでしたね。自分の中に深く降りていって、そこにあるものを捕まえて、どうにかこうにか表に引きずり出すこと。それだけが唯一の確かなものだと、言っているように思います。あれ、『ドライブ・マイ・カー』でも同じこと言ってたっけ?
本当はもっといろんなことを考えながら読んだはずなんだけど、散り散りになってしまいました。こういう単なる筋以上の意味を想像させてくれるのが、村上作品の大いなる魅力だと思います。そしてそういう作家さんは決して多くないですよね。ここまでのファンタジーを正面から描いている作家さんを、そういえば知らないなと。読めば読むほどに惹き込まれ、あちこち想像を膨らませる余地のある(いや、それしかない)物語でした。やっぱりさすがの村上ワールド!と、改めて思った次第。長編、あと何本読めるんだろう。次回作を楽しみに待ちたいと思います。
よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。
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