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感想_ばにらさま

冬のバーゲンで何も買わなかったというか、買い物に行かなかったな。寂しい。


さて。山本文緒『ばにらさま』(2021年刊)読了。白くて冷たい恋人や、ヴァイオリンとポーランド人の過去、かつての同級生の遺言など、日常風景の小さな光と底冷えする闇を切り取る6つの物語。


山本文緒さんの小説は一時期片端から読んでまして、『恋愛中毒』や『落花流水』が大好きでした。本作もそのエッセンスは健在で、「わたしは大丈夫」はまさに『恋愛中毒』を彷彿させる一作。恋なんてしないと思っていたはずが、底なしの沼にはまる様子を、あっと言わせるプロットでまとめるの、さすがです。ほかの作品も、面白かった。


どの物語の主人公も、自意識と現実の間で揺れている感じが絶妙で、思うにまかせない現実にいつも振り回されるけど、そういうのは自分だけではないんだよなと気付かせてくれます。作中でSNSがよく登場しますが、その空虚な独白に行き場のない感情や、現代の居場所のなさと承認欲求が滲みますね。みんな、どうにかして自分を肯定したいんだ。


トリを飾る「子供おばさん」が僕にはいちばん刺さったというか、身につまされました。自分を子供のままだと思う50手前の女。僕も、自分は大人になれていないんじゃないかと思うことがあって、共感しました。歳をとっても、子供ができても、それでもまだ自分は大人と言えないような。これって何かが欠落しているのか、ただ見えていないだけなのか。


「よくやってるよ」って言い合えたらいいんですよね。忖度でも、傷の舐め合いでもなく、自然にさらっとお互いの健闘やらなんやらを讃えあえたら。今っぽい作品だなあと思いきや、すべて初出は2008〜2015年のものでした。


山本先生のご冥福を祈りつつ。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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