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未来は僕らの手の中

 

なにやら人間ドックの再検査がなんとなく大ごとになりつつある今日この頃。無事を願っておりますが。

さて。雑誌WIREDの「THE WORLD IN 2022 未来へ漕ぎ出すための必携キーワード」を読みました。テクノロジー、サイエンス、健康、環境、交通、政治、ビジネス、カルチャー、セキュリティ、ギアの10のカテゴリで今年を占った一冊。さまざまな有識者が2022年の注目キーワードを列挙していて面白いです。

詳しくは誌面を見てもらうとして、印象に残ったのは大きくふたつ。世の中のほとんどはテクノロジーが占めているということと、その中で脱炭素の流れは不可避というか確定事項であるということでした。

まず前者を見ると、10のカテゴリのほとんどにテクノロジーの話が入ってくるというか、それなしには何も話が進みません。健康もバイオテックが関係しているし、カルチャーもNFTがからんでくるし。もちろんAIも外せません。これは良いも悪いもなく、そういう時代だということですね。

それから後者について、EVだったり水素燃料の実用化だったりESG投資だったり、気候変動に関する話題が新聞などに出てこない日はありませんが、脱炭素は一過性のトレンドではなく、ワールドスタンダードなんだということがよくわかりました。ビル・ゲイツが寄稿していますが、彼のいう通り今年はこの流れが加速し、定着する1年になりそうです。脱炭素って本当にできるのかな?ではなく、実現に向かってすでに大きく進んでいるし、後戻りはないと考えないと置いていかれそうですね。

SNSをはじめアルゴリズムの働くネット情報はどうしても自分の趣味(娯楽的なものや、既存の人間関係)に偏っていくので、新聞や雑誌の客観情報は大切だと感じています。乱暴に言うと、SNSは圧倒的に「今この瞬間」ですが、新聞を読んでると「今を通して覗く未来の輪郭」が多少なりとも見えるような気がしています。この特集も然り。

それがなんの役に立つのかと言われたらわかりませんが、世の動きをキャッチアップしておかないと、あっという間に置いてけぼりになりそうな気がしているのでした。未来がわからないから投資もギャンブルもある、と言った人がいるそうで。そのわからなさを楽しみつつ、その宇宙へと漕ぎ出す助けとなりうる一冊でした。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、良い1日を。


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