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オズマガジン2022年3月号「東京小さな店めぐり」②

 


スキージャンプ小林陵侑選手惜しかったですねーーー! 1本目の跳躍凄かったです。跳躍というより飛翔。

さて。昨日に続いてオズマガジン最新号のご紹介。第二特集は「代々木上原」です。新宿、原宿から近くて、落ち着いた住宅街ながらセンスのいいお店が集う街。特にこの10年くらいは続々とカリスマ飲食店ができている印象。

誌面に書いてありますが、人の流れに変化が生まれたのは5〜6年前からだそうで、それは「奥渋谷」というエリア呼称が誕生した頃だそう。つまりは渋谷の奥、東急本店の先、松濤あたりから代々木八幡にかけてが賑わい出したことで、それまでは離れ小島というか独立国家的だった代々木上原が、渋谷〜奥渋谷〜代々木八幡〜代々木上原という散歩道に、線でつながった瞬間。

パッと思い浮かべるだけでハリッツ(ドーナツ)でしょ、アスタリスク(パティスリー)でしょ、カタネベーカリー(パン)でしょ、sio(フレンチ)でしょ、按田餃子(餃子)でしょ、と名店の数々が思い浮かび、それ以上に僕など外様ではカバーしきれない名店が数多あるのでしょう。PATHとか365日とかlittle nap coffee standとかもこのエリアか。

センスが無茶苦茶いいのに、住宅地ゆえの落ち着きがあって、だからこそ地に足のついた印象が強いんですよね。清澄白河なんかにも同じことを感じて、生活と地続きなんです。だから、お客さんが老若男女で家族連れもひとり客も共存していて、そういうところが親しみやすさとなってまた人を呼ぶという好循環を生んでいる気がします。

こうしてみると、2011年で価値観が大きく変わり、大資本から個人へと、お店というもののパラダイムシフトが起こった10年だったように思います。そしてそれを体現している代表格が、代々木上原という街なんでしょう。

って、住人でもないくせに偉そうに語ってしまいましたが、僕が四の五の言うまでもなくナイスな街だと思いますので、ぜひ誌面チェックがてら散歩に繰り出してみてください。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。




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