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移動の本質。僕らはどこに向かいたいのだろう


 釣りスピリッツというアーケードゲームにハマるかもしれない今日この頃です。


さて。メタバースに関するニュースを多く見るようになってきました。アバターが自由に行き来する仮想空間。ザッカーバーグさんは「仕事や遊び、学びに創作など思いつくことはなんでもできるだろう」と言っているそうです。そしてメタバースの登場は人の移動を減らして、環境負荷も低いと。


これだけ話題になり、すでに大きなお金も動いていることを考えると、近い未来メタバースのある生活がやってくるのでしょう。インターネットやスマートフォンやzoomがあっという間にインフラになったように。僕個人は今はまだ及び腰ですが、そんなのお構いなく気づいたらなくてはならないツールになるのかな。ちなみに、一般生活に登場するのは3年後くらいらしい。


「よりみち」を標榜する当ブログとして考えたいのは、移動ってなんだっけ?ってことですね。例えば在宅勤務をやってみて僕が感じたのは、通勤時間にもそれなりの意義や恩恵はあったな、です。満員電車は勘弁ですしHPは減りますが、スマホを見る、本を読む、ぼんやりする、寝るなどなど、隙間でしかないけど、隙間には隙間なりの意味があったかなと。旅行で言えば、目的地に行くことが重要ではあるものの、その途上にも旅情ってありますものね。


原始まで遡れば、そもそもは食料を求め森を出て移動を始めた人類が、生存のために定住と農耕をはじめ、社会ができると今度は土地に縛られるようになり、やがて近代になり再び自由な移動を求めていきます。馬車、電車、自動車、飛行機。世界中に移動できるようになると、次はその時間をなるべく短縮するように考え、ついに登場するメタバースは、移動そのものをなくしてしまおうとしているのでしょうか? 例えばGoogleマップが全部仮想空間になりアバターを通して自由にどこにでも行けるようになると想像したら、自宅にいながらにして移動時間さえも仮想的に体感しながら旅行できちゃったりするのかな。少なくとも視覚と聴覚は、本物の移動と変わらない体験ができるようになるのかもしれないですね。


それでも。買い物にしても、通勤にしても、旅行にしても、単目的(商品を買う、仕事をする、観光をする)で考えると移動時間はない方が効率的だと思うのですが、もうちょっと俯瞰してよりよく生きることを目的として考えると、無駄っぽい過程にある行為も重要だと思うのでした。歩くのような、身体的運動がまず大事に思えるし、触覚や嗅覚も移動の中に含まれているもので、これはメタバースでは体験できないように思うのだけどどうでしょう。例えば通りすがりの民家から漂う夕餉の匂いとかも再現できちゃうのかな?


おそらくメタバースは、いろんな課題を解決し、新しいスタンダードを連れてきてくれるでしょう。移動が困難な環境や状況はたくさんあるので(まさに今のコロナとかね)、有効な選択肢になることは間違いないと思います。でも、移動=よりみちには、「体を動かす」という身体性が本質にあるように思います。汗をかいたり、筋肉を疲労させ、細胞を新陳代謝させることは、リアルでやらないといけないことかもしれませんね。


なんにしてもすごい時代になっていくなー。的を射てるのか全然わかりませんが、それはそれとして。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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