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感想_ファクトフルネス

 

11/22月曜日おはようございます。日本シリーズ第二戦も痺れましたね。オリックス応援してます。

さて。よりみちライブラリ第53回。ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著『ファクトフルネス 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(2019年刊)読了。言わずと知れたベストセラーです。

お仕事相手の方に薦められて読みました。ボリュームありますが、内容は冒頭にほぼ集約されていて、13問のクイズに回答してみればOKです。その結果から、私たちはいかに世界のことや、その他いろいろなことに対して、間違った思い込みをしているかということに気づけるはず。

例えばアフリカはまだまだ最貧困国が多くて、治安も衛生環境も劣悪で、というようなイメージを持ってないでしょうか(僕は持っていました)。ですが、実情は決してそんなことはないということ。もちろん、目を背けたいような状況が残る国はあるものの、20年前よりもはるかに改善しているというのが事実だそうです。なのに多くの人は、昔のイメージや、限定的な悪いニュースの印象だけで、全体を決めつけてしまうことが多いということ。

しかも、イメージで決めるだけではなく、より悪い方、より悲劇的なほうを選んでしまいがちな本能が備わっていることも喝破しているところがミソです。メディアから聞こえてくるのは、良いニュースよりも悪いニュースの方が多くて、そしてそれは良いニュースよりもはるかに記憶に残りやす。なぜのら、よりドラマチックでもあるから。

ちょうど、マンガの『ミステリという勿れ』でも本書とまったく同じことを言っていて、それは「真実は人の数だけあるけれど、事実はただひとつ」ということ、これに尽きます。何が正義だとか、誰が被害者だとか、そういう「真実」は立場や見方によって変わってしまう。でも、起きた「事実」というものは、どこから見てもただ一つであり、そこを見ないことにはあちこちでボタンを掛け違えてしまうということを、私たちに教えてくれます。

このファクトフルネスの考え方は、特に「誰かの考え(=事実とは限らない)」が大量にあふれる今こそ、必要なものだと思いました。どんなにもっともらしい意見も、多くの人が共感するストーリーも、100万ものBUZZも、裏付ける事実がなければそれはあくまでひとつの可能性に過ぎないということです。

まとめると、私たちはどうしても思い込みやすい生き物であるということ。だから、そんな自分をちょっと疑ってみて、事実に基づいて楽観も悲観もせずにいこうぜ、ということ。そして、世界は多くの人が思うほどには悪くないということ(良くなっていることがたくさんある)。

ということで、とてもシンプルですが、いちいち納得のためになる一冊でした。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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