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今年の鎌倉特集制作、始まりました。



1/8水曜日おはようございます。僕を雇ってくれた先々々代編集長と飲んでおおいに刺激を受けた僕です。ご縁てほんとありがたい。

さて、昨日は4月発売の鎌倉特集のことを考えていました。編集部員から集まった企画書を読み返しながら、キーワードをメモり、それをページネーションに当て書きしてくという作業。みんなからいいアイデアをもらってるので、僕はそれを並べるだけの簡単かつ役得なお仕事です。

やってる途中で、すっごい楽しいなーこれ、と思うのが常で、今回も御多分に漏れず。このアウトプットが特集の骨格であり最初の設計図になって、ここにタイトルをつけて、取材先を選定して、具体的な構成を考えて、という肉付けがなされていきます。今年の鎌倉特集も楽しくなりそうだなー。

ここに至るまでに部員たちの知識と経験、フィールドワーク、それに加えてそれぞれの個性や感性というフィルターを通過していて、僕の役割はそれらを最大化する指揮者であり演出家というところ。演者がいるから成り立っています。

それから僕が駆け出しの頃に教わったことがあって、取材とは「材料を取る」と書きます。つまり、取材相手から無償で材料を提供してもらって初めて成立するということ。これは本当にありがたいことで、それだけは忘れないように心がけています。誰も取材を受けてくださらなかったら、媒体は成立しませんから。

毎月繰り返される作業ですが、同じものはひとつとしてなく、そして一定の形に残り、一度出したら修正はきかないのが紙の本。そんな仕事に携わらせてもらえていることに感謝しながら、皆さんに楽しんでもらえるよう頭をひねってます。

だいぶ先の話ですが、鎌倉特集、ご期待ください。

いい1日を。

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