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感想_ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー


1/13月曜日おはようございます。新成人のみなさまおめでとうございます。僕の成人式は大雪だったことを毎年思い出します。


さて。よりみちライブラリその3。2019年6月刊行の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』読了。これは今読むべき本。書店さんでも多く並んでますね。

福岡出身ブライトン在住の著者のブレイディみかこさんが、アイルランド人配偶者との間にできた11歳の息子さんの学校生活を中心に、英国のさまざまなグラデーションを綴っています。ブレグジットや移民問題、アイデンティティの問題にグレタさんのスクールストライキまで、タイムリーな時事問題とリンクしてるのがまたコンテンポラリーで読むべき理由です。

まず単純に読み物としてものすごく面白い。聡明な息子くん、懐の深い母ちゃん(著者)、そしてクールなツッコミを入れてくる配偶者さんのコントラストが絶妙で、さまざまな級友や地域の方々もユニーク(ヘビーな部分もたくさんあるけど)。僕はクリスマスにラップするジェイソン・ステイサム(似の生徒)が大好き。

著者の筆力の高さ(フラットな視点、多様な経験)によるところもすごく大きいですが、この魅力は圧倒的にリアルだからでしょう。人種、貧富、宗教、地域、思想、セクシャリティなど、あらゆる意味での多様性。日本でこれらのバリエーションを日常的に感じる機会は少ないと思います。知識欲が刺激される。どうしてもニュースなどは大きな現象でしか聞こえてこないので、それだけではわからない本当の市民の声が聞けるのはとても貴重かつ学びが多い。

やはり真に多様性を理解するには無知が最大の敵で、それぞれの立場をよく知り理解する必要があることを痛感。例えばシングルペアレンツ=子供がかわいそう、とか方程式化していないか。いい悪いではなく立場が異なることはままあるし、自分と違うものを人は無意識に排除したがることも忘れてはならない。「他人の靴を履いてみる」という表現、すごく納得。エンパシーの重要性。

ついつい、自分のいる場所がいちばんノーマルだと思ってしまいますが、そんなことは全然ないですよね。そういうことにたくさん気づかせてくれる良著でした。日本でのエピソードは悲しすぎるしこれは他山の石にしなくては。

ちなみにこの本との出会いは、去年の「大人の夏休み」特集でやったオズイチ企画に載っていたから。その時買った積読があと3冊ほどあります。

本屋さんで偶然見つけるのも、アルゴリズムが推薦してくれるのもいいし、こういう風にメディアからの出会いもまた楽しい。

では、今日もいい1日を。


>>『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』のレビューはこちら

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