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僕にとってのケの日の美学

お米の消費量が下げ止まらないらしいです。自分ちも減ってるのか気になるな(実感ないけど減っていそうだ)。

さて。メトロミニッツ・ローカリズム最新号「ケの日の美学」が配布中です。メトロミニッツが考える、ケの日の4つの美学が紹介されていました。すなわち、使い手の美意識が宿る台所道具、器、食事、日用品を訪ねて日本の各地をご案内。

この特集を象徴していたのは、イントロダクションとして掲載されていた松浦弥太郎さんのインタビュー「日々是好日」で、幾つかのエピソードから何気ない日常をよく生きることについてのヒントが散りばめられていました。実家のお母様が手入れした大根の葉の美味しさのこと、モノは自分が気に入ったものを大事に長く使うこと、食事では食後の余韻までをも楽しむこと、ご飯の後の散歩を欠かさないこと(よりみちだ!)。つまるところ、日々をよく味わうべしということ。

この考えは、このブログの名付け親(?)でもある『暇と退屈の倫理学』にも通じるように思う。毎日はケの日の連続であり、それは繰り返す日常であり、退屈との戦いの日々である。古来より人々はこの退屈というなかなかの強大な敵と戦ってきたわけだが、その攻略法こそ、「よく味わう」ことなのだと僕は解釈している。そこには実は、ハレもケもないのだ。

どんなに刺激的なハレの日も、それがもしも毎日続くとしたらそれはやがてケの日と化し、退屈へと成り代わっていく。だからハレの日は暇つぶしにはなり得るかもしれないけれど、根本的な退屈への対処法ではないのだ。ハレであれ、ケであれ、その奥底に楽しみを見出して付き合うからこそ、退屈の対極にある深い満足を、持続的に得られるのだと思う。表層だけでは通過して終わり。

なので、僕としてはメトロミニッツの特集とは、ちょっと考え方が違うということになるのだ。ケの日を豊かにするために必要なのは、美意識の宿る道具とは限らない。松浦さんがなんでもない瀬戸物に愛着を持っているように、愛着の理由を外から与えられる価値観ではなく自分の内に求めることこそが肝要なのだと思う。ケの日を慈しむのは、自分自身であり、誰かに見せびらかすものではないのだから。美意識の宿る道具を、自分の物差しを通して愛でるのであれば、それはとてもいいことだと思う。

代わり映えのしない通勤路であれ、だいたい同じ食事であれ、他愛のない会話であれ、それは繰り返しのようでいて、実は全て異なるもの。そういう気持ちで世界をまなざすと、ハレもケも、なかなか悪くない日常だと思えるかもしれない。僕は、そんな風に考えていられるように、よりみちをしている。退屈と戦うちょっとしたコツとして。

よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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