スキップしてメイン コンテンツに移動

感想_レンブラントの身震い


パソコンの見過ぎでかなり疲れ目です。ブルーライトカットのメガネしたほうがいいのか。。

さて。マーカス・デュ・ソートイ『レンブラントの身震い』(2020年刊)読了。数学者である著者が、ディープラーニングで盛り上がるAIの最前線を訪ね、果たしてAIは芸術性をも獲得することができるのか!? を考察する一冊。面白かった!


難解かも?と最初は恐る恐るでしたが、語り口のうまさにすぐにのめり込みました。話題のディープラーニングによってAIが飛躍的に進化し、囲碁の世界チャンピオンを破ったエピソードなどを小気味好く紹介し、A Iの現在地を掘り下げる過程は、SFを見ているような気分に。しかしこれはすでに起きている現実で、SFでもなんでもない!(2020年の本なので、今はさらに進んでいるんだろうな)


話の展開が恐ろしく上手くて、AI囲碁の話から、アルゴリズムの起源、それを生み出した数学とは何なのかまで掘り下げたうえで、この本の核となる「AIは創造性を持ち得るのか」という主題にたどり着きます。この鮮やかな展開こそ数学者の真骨頂であり、証明という哲学を生きる者の成せる業かと恐れ入る。そして中盤以降、本題である絵画、音楽、そして小説、それぞれのジャンルにおけるAIによる創作の最前線をリポートする。ドラマチックな展開だ!


結論から言うと、現時点でAIが人間を越える芸術性を獲得することはなく、そこに至る可能性は今のところ低そうに思えます。ですが、邦題のソースであり表紙にもなっているようにレンブラントそっくりの絵を描く力を持ち(しかし、そこには本物のレンブラントにある、見る人を身震いさせるような魂がないらしい)、即興でジャズを奏でることもでき、コンピュータが作ったと見分けることができない文章がすでにあるそうです。


以前から、たとえば流行りのポップソングや、映画のシナリオなどには、ある程度人の心を掴みやすい規則性というか、売れ筋とされるような常套パターンが存在すると考えているので、それは機械でも再現できるのではないか?と思っていました。まさにその試みはいたるところで行われていたこと、そしてかなりのレベルでは実現しているそうです。ただ、そこにはどうしても創発的なものがなかったり、部分はよくても全体をオーガナイズする力が今のところAIにはないため、退屈なものになってしまうのだそう。


そのかわり、囲碁のようにプログラムの上限が決まっているもの(それが何千万通りであれ)であればその力を十分に発揮するようで、人間では思いつかない組み合わせや、慣習にとらわれない革新的な手順を示すことによって、その手があったか!的にクリエイターの想像を助けるようなツールにはなってきているそう。さしづめ人とAIは素敵な相棒となりえて、コラボレーションが成り立つということ。


最後に、AIはなぜ創造力を獲得できないのか、クリエイティビティとは何なのか、著者の持論が述べられて終わります。創造性とは自由意志によって生まれるものであり、そして死すべき運命こそが私たちをそこに駆り立てるのだと。かなり主観的な意見ではありますが、僕はおおむね同意できるなと思いました。死を恐れ、他人と真の共通言語を持ちえない私たちだからこそ、それに抗うべく表現を編み出し、そしてそれを残すことを願った。僕がこうして日々駄文を連ねるのも、誰かに見てほしい、知ってほしい、そんな気持ちがそうさせています。AIにそういうことをプログラムすることはできるでしょうが、そこに魂は宿らないはず。


ということでボリュームありましたが最後まで楽しませてもらいました。最近この手の数学的な本に興味が向いていて、『博士の愛した数式』で語られたような数の美しさというか、物事の裏側にある法則性に、妙に惹かれています。ネットの世界がパーソナルで柔らかいものが多い反動か、明確な根拠があって理路整然としたものに安心を覚えているのかもしれません。


ところでこの本は「新潮クレストブックス」というレーベルから出版されていて、気付いたら本棚には同レーベルの本が3冊もあって、どうやら趣味趣向が合うようです。のちの名作になるであろうことを基準に、海外の本を翻訳出版するレーベルだとか。ラインナップ見てみると気になるタイトルばかりなので良かったらご覧になってみてください。


よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

コメント

このブログの人気の投稿

抽象絵画スペクタクル

書きたいことはいろいろあるのですが、書く時間がうまく取れなくてすみません。 でも。これはどうしても書き残したい! アーティゾン美術館で開催中の「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」鑑賞しました。 軽い気持ちで観に行ったのですが、とてもよかったです。何がよかったかというと、最後の「現代の作家たち」のセクションで、文字通り現代作家の抽象画が並んでいるのですがとても好みで最高だったのです。特に感動したのが鍵岡リグレ アンヌさんの作品↓ 「Reflection」というシリーズの2点でしたが、流る水を思わせる色使い、世界地図のようにも見えた奥行きというか広がりの視覚的インパクトもさることながら、これジオラマのように隆起している立体的な作品なのです。解説によるとグラフィートという古典的な壁画の技法に布のコラージュが加わっているそう。初めて、心の底から、この作品が欲しいって思いました。いくらするかわからないけど何とかして手に入れたい。作品集もあればほしい(検索したところ見つからなかった)。 そのほかにも、リタ・アッカーマン、津上みゆき、高畠依子、横澤美由紀といった面々の作品もインパクト抜群でした。めちゃくちゃワクワクした。 展示全体でいうと、抽象画前夜のセザンヌやゴーガンに始まり、マティスにピカソにジョルジュ・ブラックのキュビスム、そしてカンディンスキーやパウル・クレーといった始祖の作品が連なります。やがてその中心はアメリカに移り、ジャクソン・ポロックやクーニング夫妻、マーク・ロスコなども並ぶオールスター的なラインナップで見応えありました。 あらためて抽象画、パッと見からは何を描いているのかわかりません。印象派たちが自らの感性のまま風景をとらえたのち、作家たちは自らの内面に目を向けそれをアウトプットしたのが抽象画だとするなら、それはすなわち心象風景であり前後の文脈や作家の言葉を参照せずに、わかるはずはない。 だから、わかろうとしなくてもいいんですよね。僕なんかはもう見た感じが好きか嫌いかでしかないし、それが何を描いているのか想像したところで正解なんてもはやないわけで。そしてそれこそが醍醐味だなと再確認しました。強い原色、荒ぶる筆致、あるいは薄暗い世界、不思議な幾何学模様。なんだか答えのない今の時代にぴったりとも言えるかもし

小学2年生は恥じらう生き物。〜長男7歳6ヶ月、次男2歳11ヶ月〜

↑この現象、日暈というのですね(またはハロ)。 さて。小2長男の授業参観に行ってきました。教室につくと見知った子どもたちがじゃれてきてかわいいです。見知らない子どもたちも「誰のお父さん?」といった具合に寄ってきてかわいいです。 見たのは国語の授業。詩を班ごとに朗読するというものでしたが、各班それぞれ詩の読み方を独自に考えて発表するというもの。ソロをパート分けしたり、みんなで一緒に読んだり、声を大きくしたり身振り手振りをつけたり、いろんな表現をしてみんな頑張っていました。 詩をただ読むでもなく、意味を読み解くだけでもなく、こうやって身体的表現の領域まで拡張するのはとてもクリエイティブでいいな、って思いました。前にコラボ授業(算数×体育みたいな)のニュースを見ましたが、国語×音楽や体育というのもありだよね、と。 発表の後は、どんな工夫を発見したか、聞いていた人たちが挙手して発表。こういう演って終わりじゃないスタイルも自分の子供時代にはない(あれあったかな?記憶なし)、今っぽい進化だなーと思いました。 さて。ひとつ思ったのは2年生にもなると照れとか恥じらいが出るんだな、ということ。緊張は1年生でもあったけど、去年はもっとみんな勢いだけでガンガンいっていたような気がする。あと、正解を当てに行っているなというところも。 真っ当な成長なんでしょうけど、なんか寂しさも感じたりして、公共の場でわちゃわちゃしてるとヤレヤレとか思ったりするのに身勝手な大人の気持ちなのでした。 なんにしても愚息くんも学校生活を無事に送れているようでひと安心。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。 ■次男備忘録 ここにきてワガママがひどいというか、イヤイヤのアップグレードというか…。お風呂入らない、歯磨きしない、寝ない、のないない3兄弟に参っております。 一方で言葉は達者になり、抱っこせがみが減り、遊び方も複雑化したりお絵描きも形を成し始めたりという成長も。

感想_<叱る依存>がとまらない

アンガーマネージメントにも興味がある今日この頃。 さて。村中直人『<叱る依存>がとまらない』読了。部下を、子供を、つい叱ってしまう。その日常的な行動には叱る側の依存性があった。臨床心理士の著者が「叱る」のメカニズムを解き明かし、叱らない社会をやさしく説いた1冊。 7歳と2歳の子供を持つ生活は、日々のあちこちに「叱る」が潜んでいます。前を向いて歩きなさいとか、ごはんこぼすなとか、いたずらするなとか、早く支度しなさいとか…。そんなのはどこでもそうだと思うのですが、「程度」がわからないのですよね。どのくらいがしつけや教育の範囲で、どこからそれ以上に逸脱してしまうのか。そんな自分の悩みの出口を求めてこの本を手に取りました。 なお、自分は対子供で考えていましたが、この本は対部下や後輩というのも大いに含まれています。 本書の大きなポイントは叱るという行為は、叱る側の欲求を満たすものであって、叱られる側を変える効果は非常に弱いということ。「本当はこんなこと言いたくないけど仕方ないから」と思いながら叱っているつもりが、実は「叱りたくて叱っているだけ」ということです。独り相撲かよ! もちろん、相手に変化を促したいという気持ちは間違いなくあるのですが、叱るというのは手法としてまったく有効じゃないと言うことです。でも、叱ることで相手が言うことを聞いたように見えたり、萎縮したりするから勘違いが生まれてしまい、その実本質的には何も変わっていなかったというオチ。こうして「何度言ってもわからないならこうだ!」的な負のスパイラルが生まれ叱る依存はエスカレートしていくと。 実験データや専門的知識をもとに語られているのでこのロジックはとても腑に落ちますし、確かに怒ってみせたり、きつく言い聞かせたところで、相手が何にも変わらないというのは実感もあります。子供もそうですし、対大人でもそう。自分が叱られる立場で考えても「この説教早く終わらないかな」とか思ってたりしますよね笑(いや、自分に非があればもちろん認めますよ…)。 叱るの持つ効果は、例えば道路に飛び出す子供を止めるような無条件の危機介入・抑止力のみのようです。とにかく何が何でも止めなきゃいけないときだけ。なので、相手に本質的な改善や理解を要求するならば、叱る以外の方法を模索した方が良い。 子育て8年目に突入した今、これはなんとなく思うところなのでした