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M式「海の幸」に見る類稀なる実行力


 






12/24金曜日おはようございます。メリークリスマス!

さて。昨日のポストから「海の幸」つながりのこちら、アーティゾン美術館で開催中の「M式《海の幸》森村泰昌ワタシガタリの神話」を鑑賞してきました。見応えありましたわー。

青木繁という明治期の洋画家の作品を出発点に、森村泰昌がお得意のなりきりセルフポートレートを発動した展覧会。特に、青木の傑作とされる《海の幸》を大胆に再構築した10点の連作が圧巻です。

僕は青木繁も《海の幸》も知りませんでしたが、この作品、不思議な味わいが。海辺で大きな魚を運ぶ10人ほどの全裸の人がいて、ひとりだけこちらを見ているというもの。見ていると、人類の進化の歴史のようであり、1人の人間の生涯のようでもありました。こちらを見ている人物が現在で、「今」はいつだって一瞬で過ぎていくことを示唆しているような。

そして森村さんはこれをセルフポートレートでトレースしつつ、さらに大胆に解釈し、明治から近未来まで10の時代背景でこの構成を再現。戦前、戦後、オリンピックに万博から、平成、そしてコロナ禍の今とその先まで。わかりやすさもあるし、作品も大きいしで、見応え抜群です。

そして、この連作の制作過程も展示されます。絵コンテから始まり構図決め、習作に取り掛かり、衣装も作り、メイクも撮影もセルフ。作業が膨大だし、一つ一つが思ってた以上に緻密で、気の遠くなる作業です。ここまでやり切れるのは本当にすごいと圧倒されました(プロセスを開示するのがいいことなのかは意見が分かれそうだけど)。

アーティストと凡人の差って、発想以上にこの実行力に由来するよなと再確認。ベンチャー企業とかも、似たようなアイデアはけっこうみんな持っていて、実行したかどうかが勝負の分かれ目みたいな話を聞いたことがあるので、すべてに共通しているのかもしれません。

やるっきゃないってやつですね。会期は来年1/10まで。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。


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