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群馬よりみち記その4。続・中之条ビエンナーレへ。






11/20土曜日おはようございます。期せずして紅葉狩りできて嬉しかった僕です。

さて。引き続きの中之条ビエンナーレレポート。ところで宿泊は四万温泉に。宿の方に聞くところ、だいぶ予約が戻ってきたそうで。ちょうど紅葉の見頃にあたり、朝の雨に濡れそぼった山は、その色づきをより鮮やかに見ることができました。

廃校が芸術祭会場になるのはもう珍しくありませんが、どこの展示でも古い校舎にはかつての子供たちの残響のようなものがあって、それだけで強い印象を残します。そしてそれは作品のパワーを増幅させるように感じます。ホワイトキューブとは全然違う贅沢な世界。

もっとも目を惹かれたのは、平家校舎のいちばん奥の教室で、静かに佇む鳳凰のような作品。それを形作っているのは小さな機械のパーツたちで、この地の産業にゆかりあるものでしょうか。作品の神意はわかりませんが、まさに不死鳥のようによみがえる土地の記憶といったふうで、釘付けになりました。とにかくキレイだった。

それから、里山の特徴をマンガのセリフのように表現した作品も印象深かった。クマが出た時のコミュニティの反応にインスパイアされたそうですが、校舎の1Fから2Fへ、観客の移動も作品化することで、時間の流れや情報が広がるスピード感も疑似的に体験で気がします。おもしろいスケールだなー!

帰り道、クルマを走らせていると、カフェルトープという看板が見えました。その佇まいにビビっときてあとで検索してみると、カエルトープという店名の空目だったのですが、HP見る限り素敵そうでした。今度中之条に来るときはここにも行かないとな、と思って群馬を後にするのでした。

アートと静かな街と温泉て、いい組み合わせですね。よりみちしながら、いきましょう。今日も、いい1日を。

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